ターナーと巨匠たち展 [☆彡Paris 展覧会]
昨年3月のことだが、パリの「グランパレ」で、「ターナーと巨匠たち展」を見た。
パリの「ピカソと巨匠たち」展の成功に刺激されたイギリスが、テート・ギャラリーで、
「ターナーと巨匠たち展」を開催した。終了後、パリ、マドリッドと巡回した大企画展。
ターナー(1775~1851)は、イギリスを代表する風景画家。
ロンドンの貧しい理髪師の子として生まれ、13歳のとき、風景画家に弟子入り、
14歳で、ロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学。早くから才能を発揮し、
24歳で、ロイヤル・アカデミー準会員、27歳で正会員となった。「孤高のライオン」と
よばれるほど、突出した才能だった。
風景画家のターナーは、スイスに旅した帰り、フランスに寄り、10年前にできた
ばかりのルーヴル美術館に行った。そこで、ティツイアーノ、プッサン、クロード・ロラン
ら、古典の巨匠たちの作品に接し、この巨匠たちを越える日を目標に、模写に励んだ。
ティツイアーノ風の絵、聖母子(1803年)
巨匠作品を意識して同じタイトルの作品を描き始めた。
「洪水」(1805年)は、ニコラ・プッサンの「洪水」(1660年)を意識したものだが、
ターナーは、洪水の風雨をブラシでさっと一掃きすることで表し、水平線の彼方に火山の
噴火のような赤をアクセントとして加えている。
プッサンの「洪水」
ターナーが、最も影響を受けたのは、古典主義の風景画家クロード・ロランだった。
「ヤコブとラバンとその娘たちがいる風景」(1654年)という聖書(創世記29章)を
題材としたロランの絵の人物を変えて、「Appulica in Search of Applus」(1814年)
とした。上がロラン、下がターナーの絵。
クロード・ロランは風景画家だったので、当時のフランスでは主流ではなかったが、
ロランの画面構成をターナーは学んでいる。
ターナーの転機は、44歳のときのイタリア旅行だった。
光あふれるイタリア、北国のイギリスと全く違う風景。
ヴェニスを描く第一人者カナレットの「埠頭」The Molo (左)
「カナレットのような絵」Canaletti Painting(1833年) (右)
今までのターナーには、なかった空の青。明るい色彩。
この展覧会の特徴は、ターナーが参考にした巨匠たちの絵が並んで展示されている
ことだった。じっと見ていると、「僕だったら、こんなふうに描く、僕の方がいいでしょ」と、
ターナーが言っているような気がした。
ロココの代表的作家、ヴァトー(ワトー)の「2人のいとこ」(1716年)(下左)をターナー
は、技法を学んで、もっとロココっぽく優雅に変えた(下右)。タイトルは「As you like it」
(1822年)、シェークスピアの戯曲「お気に召すまま」からとった。
巨匠中の巨匠、レンブラントの光の使い方も、ターナーは学んだ。
左:レンブラント「風車」(1645年)
右:ターナー「Four à chaux à Coalbrookdale」(1797年)
若いときから、名誉を得て、同時代にライバルがいないターナーは、過去の巨匠たち
と競い、ヒントを得、風景画で光や空気をどのように表現したらいいのか、模索していた。
「カレーの砂浜」(1830年)
この展覧会の図録の表紙や広告に使われている絵。
印象派という名前の由来となったモネの「日の出・印象」に影響を与えているのでは、
と思える作品。明るい色彩で、潮干狩りをする人物の描き方がすっきりとしていて、
私は好きな絵。
「雪の嵐」(1842年)
この辺りから、私が今まで知っていたターナーの絵、ぼわっとした絵というイメージに近
くなってくる。嵐や難破船は、ターナーが好んでとりあげた主題である。
父の死で、ゆううつ症だった当時のターナーは、難破船に自分の気持ちをだぶらせて
いた。
「川と遠くの湾の風景」(1845年)
物の形が色彩の渦に溶け込んでいる。晩年の作品。
ターナーという画家の「人となり」を作品の変遷を実際に見ながら考えていく、
という意味で、とても興味深い展覧会だった。ターナーと同時代の風景画家の
作品も展示されていた。とても中味の濃い充実した展覧会だった。
☆各絵のタイトルは、私が訳したものなので、正式なものではありません。