ラファエロ展 肖像画の人々 [展覧会(西洋画)]
東京・上野の西洋美術館へラファエロ展を見に行った。
ラファエロの描く聖母の顔の優雅さ、やさしさが好きで、今回の展覧会のポスターに
目が釘付けになった。一昨年夏のイタリア旅行で、ラファエロ作品をかなり見たけれど、
今回は見たことのないものが多いので、期待をしてでかけた。
展示は、作品の年代順になっているので、作風の変化を見て取れる。
まず最初に目に飛び込んでくるのが、ラファエロ(1483~1525)、23歳の自画像。
ラファエロは、イタリアのウルビーノ公国で生まれた。11歳で宮廷画家であった父
ジョバンニ・サンティを亡くしたが、父の下で幼い頃から画家の修業を積んでいた。
今回の展覧会には父の作品も展示されていた。
17歳で、父の助手と共に、教会の祭壇画を制作し、報酬を受け取った記録がある
ので、若くして、もう一人前だったとわかる。
現存しているのは断片だけだが、展示されていた。
ラファエロは、当時の画壇で一番の実力者ペルジーノにも学んだので、ペルジーノ
の作品もあった。思わず足を止める「死せるキリストの運搬」というドラマティックな
大きな絵も、ペルジーノの構図の人物に動きを与えた絵で、今回展示されていたのは、
コピー。後年、多くの画家に模写されたラファエロ初期の代表作。
18歳の作品「聖セバスティアヌス」。他の画家の描くセバスティアヌスは体に
弓矢が何本もささり苦悩の表情だが、これは女性のように穏やかな顔。しかも
弓矢を手に持っているとは、ユニーク。
1504年、21歳のラファエロは、フィレンツェに住み、当時52歳のダ・ヴィンチ、
29歳のミケランジェロの作品から積極的に技法を学んでいる。実際に会った
のかどうかはわかっていない。
フィレンツェ時代、故郷でほど有名人でなかったラファエロに祭壇画の注文は
来なかったが、お金持ちの人たちの依頼で肖像画や部屋に飾る聖母子画を
多く描いた。
エリザベッタ・ゴンザーガの肖像(1504年)
うしろにいた人が、「クリムトみたいな服」と言ってたので思わず笑ってしまう。
額には、サソリのヘアバンド。ヘアバンドは当時の流行のようだ。
「エリザベッタ・ゴンザーガ、これグイドバルドの奥さん?」と友達yが言う。
そう、本で読み、想像していたのと印象が違う。
ラファエロが生まれたウルビーノ公国は、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが
支配者だった。フェデリーコは、馬上槍試合で左目を負傷し鼻が曲がったため、
ピエロ・デッラ・フランチェスカによる肖像画(*1)は横向きで左目を見せない特徴
あるものになっている。
フェデリーコは傭兵隊長として活躍する一方、学芸に秀で、宮廷に多くの芸術家を
集め、ルネッサンス文化を花咲かせた。ラファエロの父もこの宮廷の画家であった。
フェデリーコ亡き後、息子のグイドバルド(*2)がウルビーノ公となった。
ラファエロの描いたグイドバルド、かなりハンサムですよね。でも、少し弱弱しい感じ。
ふたりの間には、子供がいなかったので、甥フランチェスコ・デッラ・ローヴェレを養子にした。
「リンゴを持つ青年」 1504年
頭が良さそうだけど冷たそう、野心がありそう、なんて見ながら悪口を言ってたら、
実はこの青年が、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ本人。
リンゴを持つのは意味がある。「パリスの審判」の絵で、選ばれた者がリンゴを
受け取るという決まりがあることから、彼が選ばれた者であることを示している。
将来のウルビーノ公であるから、選ばれた者なのだろう。
この時、彼は14歳。(もっと老けてみえるけど) この4年後にグイドバルドが
亡くなり、彼は18歳でウルビーノ公となった。
「聖ゲオルギウスと竜」 (1504~1505)
「竜と戦う聖ゲオルギウス」は、当時人気のある主題だった。
この絵は、グイドバルドから依頼されたもの。
チェーザレ・ボルジアによって公国から追放されていたグイドバルドが領土を奪還し、
イギリスのヘンリー7世からガーター勲章をもらい、甥のフランチェスコ(上の肖像)
を養子にしたことを記念するための作品。
ラファエロは、先人画家たちの手法を取り入れるのが上手で、馬が前足をあげる
構図をウッチェロの同名の絵から学んでいる。
1508年、25歳のラファエロは、教皇ユリウス2世からの呼び出しでローマへ行き、
ヴァチカンの居間の壁画を描く。有名な「アテネの学堂」である。さらに次の教皇
レオ10世(ジョバンニ・ディ・メディチ)(*3)もラファエロを重用し、絵画だけでなく、
サン・ピエトロ大聖堂の改築主任建築家に任命した。
「ビッビエーナ枢機卿の肖像」1516年
赤い枢機卿の服。自信にあふれた表情。劇作家としても成功していたそうだ。
そんな人間性をはっきりと写し取ることができるのがラファエロの技量。
枢機卿は、ラファエロに、ほれ込み、自分の姪を紹介し、婚約させた。その場面
をのちにアングルが描いている。(*4)
しかし、いつまでも結婚しないでいるうち、婚約者が病気で亡くなり、ラファエロも
37歳で熱病のため亡くなった。
「友人のいる自画像」 (1518~1520)
死ぬ間際に完成した作品。手前が弟子のジュリオ・ロマーノ。
奥が36歳のラファエロ。やはり、まだ死ぬには早すぎ、と見ていると悲しくなる。
この展覧会になかったが、本文中に出てくる作品
(*1)ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻」
(*2)ラファエロが描いた「グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ」
(*3)ラファエロが描いた「レオ10世」 衣装の布地が豪華
(*4) アングルが描いた「ラファエロと枢機卿ビッビーナの姪の婚約」