SSブログ

メディチ家の肖像画展 [☆彡Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、ジャックマール・アンドレ美術館で、「メディチ家の肖像画展」
を見た。

16世紀、幾多の戦いを経て、フィレンツェは黄金時代を迎えた。
1569年、メディチ家のコジモ1世が初代トスカーナ大公となった頃は、肖像画が、
広告の役割も兼ねてたくさん描かれた。

Eleonora-Cosimo.jpg

①コジモ1世の妃、エレオノーラ・ディ・トレド(ブロンズィーノ画)
ナポリの副王の娘で、気位が高かった。肖像画からもそれが伝わってくる。
美しいので、この展覧会のチラシ関係は全部これ。
彼女は9人子供を産み、孫がマリー・ド・メディシスである。

①エレオノーラの夫、コジモ1世、40才の時である。(ブロンズィーノ画)
Cosimo.jpg

*写真の真ん中に線が入ってるのは、買った解説冊子を私が2つ折りにしたからです。

② フランチェスコ1世(1541~87)
コジモ1世の長男。妃はハプスブルグ家出身で、2人の間の娘がフランスに嫁ぎ、
ルイ13世の母となったマリー・メディシスである。

少年時代のフランチェスコ(ブロンズィーノとその弟子達画)
Francois_150.jpg

フランチェスコ1世とその妃は宴の後、急死した。死因はマラリアであった。

③フランチェスコ1世の弟のフェルディナンドが次の王となった。
フェルディナンドは政治的に手腕ある王様で、スペインのトスカーナ支配を断ち切り、
フランスと積極的に外交的をし、マリー・メディシスをフランスに嫁がせた。産業振興
にも勤め、対外貿易を活発化させ、善政を行ったので、市民に人気があった。
芸術にも理解が深く、ローマの「ヴィラ・メディチ」はフランチェスコ1世が造らせた。

フェルディナンドの息子 在位期間が短かった。
Ferdinand.jpg

マリー・ド・メディシス(1575~1642) (サンティ・ディ・ティト画)
1600年、フランス王アンリ4世との結婚の時の肖像画。
この展覧会で、一番豪華な絵。等身大より大きい絵。(大きすぎてスキャンできず部分です)
テーブルの上に置いてある王冠は百合の紋章なので、フランス王家のもの。
衣装の生地には、百合の花に加えて、結婚を祝すカーネーション、多産を意味
するザクロが織り込まれている。金のブレードが華やか。
MarieDeMedichi.jpg

この時代に活躍した肖像画家は、ブロンズィーノ、サンティ・ディ・ティトの他に、
ポントルモ、リドルフォ・デル・ギルランダイオ、アンドレア・デル・サルトがいた。

左:アレッサンドロ・アローリ「ディアノラ・ディ・トレド」1565年
一番上の絵、エレオノーラのいとこ。小さな絵だが、着けている様々な宝石を
ラピスラズリも使って描いている豪華な肖像画。
右:リドルフォ・デル・ギルランダイオ「ベールを被った女性」1510年頃
ラファエッロ、ダ・ヴィンチの型の絵。窓の外の景色はフィレンツェ。

diana.jpg

貴族の女性だけでなく、宮廷に仕えている人たちの肖像画も描かれた。
この場合は、手に何かを持っていた。
左:ポントルモ「リュートを弾く人」1529年
右:アンドレア・デル・サルト「本を持つ若い女」1528年

PontrumoSalt.jpg

リュートを弾く人の絵は他にもあったし、犬と一緒だったり、鳥と一緒だったり
の絵もあった。メディチ家は宮廷画家をこれだけたくさん抱えていたのだから、
財力が半端なかった。



時代を遡り、コジモ1世より前の時代。

16世紀、偉大なるロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)と呼ばれたロレンツォ・メディチ
支配下のフィレンツェは、美しい町で、芸術と建築が素晴らしく、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、
ミケランジェロといった天才を輩出し、世界の中心だった。
↓ ヴェッキオ宮は、1540年にコジモ1世がエレオノーラ妃のために隣にピッティ宮を造るまで、
メディチ家の住居で、フィレンツェのシンボルだった。

Vecchio350.jpg

ロレンツォ(1449~92)は宮廷に、ボッティチェリ、リッピ、ミケランジェロらを
住まわせた。

ロレンツォ亡き後、跡を継いだ長男ピエロは、政治能力がなく、フランス軍に攻め入られ
フィレンツェを追放になってしまう。
フィレンツェは共和制に戻り、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフランスの後盾を
得て実権を握った。清貧を説くサヴォナローラの執政は初めは歓迎されたが、過度に
なっため、フィレンツェ市民に愛想をつかされ、ついには火刑となった。

ロレンツォ・イル・マニフィコの夢は、メディチ家から教皇を出すことであった。
マニフィコの次男、ジョヴァンニがレオ10世(1475~1521)となり、バチカン宮廷
にラファエッロやミケランジェロが集った。
フィレンツェは、再びメディチ家が支配する時代となった。
ピエロの息子ウルビーノ公ロレンツォ(1492~1519)は、マキャヴェリに法務官を命じた。
マキャヴェリは、強力な君主によるイタリア統一をロレンツォに提案したが、聞き入れ
られなかった。
マキャベリ (サンティ・ディ・ティト画)

Machivel.jpg

ウルビーノ公ロレンツォの娘が、フランスのアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシス
である。

教皇レオ10世の次の次の教皇、クレメンス7世もメディチ家出身であった。
クレメンス7世は、庶子アレッサンドロ・ディ・メディチ(1510~1537)をフィレンツェ
の統治者として送り込んだ。アレッサンドロの母はメディチ家の黒人奴隷だったため、
彼は色が黒く、イル・モーロ(ムーア人)と呼ばれた。

「フィレンツェの町を眺めるアレッサンドロ」 (ヴァザーリ画) 1534年
絵の中の小さな白い四角は、その部分の説明が参考についていたから。椅子の脚には
フィレンツェのシンボルのライオンが彫られている、というように。

Alexandre.jpg

ヴァザーリは多才で、絵を描くだけでなく、評論も書き、建築に明るかったので、
ピッティ宮の改装も行った。

アレッサンドロは、かなり評判の悪い男だった。そして同じメディチ家のロレンザッチョ
によって暗殺された。(この暗殺事件は芝居になり、ロレンザッチョは、サラ・ベルナール
の当たり役となった。ポスターをミュシャが描き評判になった)

アレッサンドロ暗殺事件は、後に、絵にもなった。
いとこのロレンザッチオに暗殺されたアレッサンドロ・ド・メディチ
Gabriele Castagnola 1865年  230×344cmの大きな絵
Lorenzaccio.jpg

アレッサンドロの暗殺で後継者がいなくなったため、親戚筋のコジモが大公となった。
そして、スペインの大貴族の娘エレオノーラ(一番上の絵)と結婚したのである。

[黒ハート]メディチ家のことは、漫画「チェーザレ」で馴染みがあったので、この展覧会にも
親しみが持てた。
フランスに嫁いだマリー・ド・メディシスがフランスに上陸する時を描いた大きな絵
(ルーベンス画)は、ルーヴル美術館にいつも展示されている。
さらに、カトリーヌ・ド・メディシスの館は、ボージュ広場に今でもあり、浅田次郎が
「王妃の館」という本を書いている。(歴史小説でなく王妃の館を舞台にしただけの
フィクション)


nice!(40)  コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

銀座・うち山 [和食の店]

M子さんがお誕生日だったので、懐石料理の「銀座うち山」に行った。
「鯛茶漬け」が有名な店で、職場の会議の時にお弁当をとったことはあるが、
行くのは、初めて。

銀座2丁目、つまり松屋の横を入って行けばよかったのに、HPの案内どおりに
東銀座で降りたから、ちょっと迷った。
Sも加わって3人だったから、個室に案内された。

Uti1.jpg

信楽の花入れに季節の花、桃が活けてあった。
茶花を習っているSが花入れの裏を見て、「ら、と書いてあるから楽斎さん」
と喜ぶ。

utichampagne.jpg

お誕生日だから、シャンパン。初めて飲む「アルロー」Arlaux だったけど、甘味と
果実味、そして濃さがあって美味しい。
懐石だから、順番に少しづつ出てくる。個室なので写真が撮りやすい。
1、胡麻豆腐の周囲にカタクリをつけて揚げたもの。
2、薄切りにしたタイラギ貝のから揚げとタラの芽の天ぷら
3、春野菜とフグの皮、フグの白子
4、あさりむき身と菜の花のぬた、糸かつおかけ

utiyama2.jpg

5、鯛のうしお汁
6、ぜんまい、ホタルイカ、ウド、ふぐの白子
7、マナガツオの西京焼き
8、雲丹、タコ、菜の花のぬた

utino350.jpg

マナガツオの西京焼きのお皿は、尾形乾山のもの。
展覧会で見たことがあったので、「おや!」と思い、お皿の裏を見たら、
ちゃんと「日本元禄年製 乾山陶隠」と銘があった。
以前、行った京都の「天ぷら・まつ」でも、乾山のお皿を使っていたから、名店は、
伝統ある貴重なお皿を使っている。
uti9.jpg

飲み物は、白ワインにすすんだ。
リストを見ると、バルセロナで飲んで美味しかった「トーレス」があったので、
トーレス、Milmandaミルマンダを頼んだ。
一口飲むなり、3人で顔を合わせて、「おいしい!」
かなり、びっくりポンの美味しさ。ふくよかで奥行きもある。

utiwine.jpg

締めは、ごはんと鯛茶漬け。
葛きり。

uti11.jpguti12.jpg

写真はないけれど、このあと、サプライズでお盆にバースディセットのアイスクリーム
などが運ばれて来たので、「えっ、なんで?誕生日って言ってないのに」
「はい、小耳にはさみましたので」 わぁ、うれしい心づかい。
シャンパンで「お誕生日おめでとう」って乾杯してたから、わかったのね。

「苦手な食材は?」と電話予約の時にきかれ、「生のウニがダメで、火がはいって
いれば大丈夫です」と答えたけど、フグの白子は念頭になかった。滅多に出てこない
ものが、何と2回も出て来た。通向きの献立?
私はお刺身とか煮魚とか天ぷらのある和食が好きだけど、この日は、M子さんの
お誕生日で、M子さん(フグ好き)に喜んでもらえたから、よかった。
 


nice!(37)  コメント(11)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

エリザベート・ヴィジェ=ルブラン展 [☆彡Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、グランパレでやっている評判の展覧会が、
「エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン展」だった。

ヴィジェ=ルブランは、18世紀に最も有名だった女流画家で、マリー・アントワネットに
気に入られ、何枚もの肖像画を残した。アントワネットが断頭台に消えた後は、
イタリー、ウィーン、ロシアと貴族たちの肖像画を描きながら移り住み、晩年、ようやく
フランスに帰国した。

Lebrun1.jpg

展覧会は、回顧展として、年代ごとの展示であった。

1、若い頃
アーティストの家系に生まれ、画家の父から絵の手ほどきを受け、父の友人の画家
たちからもアドヴァイスを受け、ラファエロ、ティツィアーノ、ファンダイクの絵を好んだ。
●19歳の時の絵「詩の寓話」。Allégorie de la Poésie
LeBrun0.jpg

上の絵の制作と同じ年、19歳の時、画家仲間の母を描いた肖像画は、
ヴィジェ=ルブランの特長であるエレガントさが既に表れていた。
21歳の時、画家で画商のルブラン氏と結婚した。

2、王妃の肖像画
貴族の肖像画を描き、評判を得たヴィジェ=ルブランは、マリー・アントワネットの
肖像画を描くために、ヴェルサイユに呼ばれた。
アントワネットとヴィジェ=ルブランは同じ年であったため、親しくなった。

●「マリー・アントワネット正装にて宮廷で」1778年

MA2L.jpg

●「軽い服装のマリー・アントワネット」 1783年

MA3.jpg

●「マリー・アントワネットと子供たち」 1787年

MA4.jpg

3、画家であり母であり
ヴィジェ=ルブランにも娘がいた。娘をモデルに母と子の絵を描いている。
●「鏡の中の自分を見るルイーズ=ルブラン」1787年 ルイーズちゃん、目がくりっ。
●「画家とその娘」1786年 ルネッサンスの画風。
本人の自画像、2もあるが、とっても美人。
LeBrun2.jpgLeBrun3.jpg

 4、輝いていた時代
著名人からヴィジェ=ルブランに肖像画の注文がたくさん来た。

●ポリニャック公爵夫人 1782年
一番上、この展覧会のポスターや図録の表紙に使われている絵。
ポリニャック夫人は、マリー・アントワネットの取り巻き、親友。
美しいだけでなく、人を引き付けるエスプリを持っていた。
軽い生地のガリア服を着て、花飾りのついた帽子をかぶり、寛いだ雰囲気。

●「デュバリー夫人」1871年
この展覧会のチケットはデュバリー夫人の肖像画だった。
デュバリー夫人は、ルイ15世の公妾。ポンパドゥール夫人亡き後の公妾。
従って、ルイ16世の妻マリー・アントワネットとは確執があった。

MmeDuBarry.jpg

●廃墟を描いて有名な画家ユベール・ロベール 1788年
ユベール・ロベールは当時55才。王立美術館のルイ16世絵画コレクションの責任者
も任され、活躍していた。(2012年、国立西洋美術館でユベール・ロべール展があった)
LeBrunHubertRobertL.jpg

5、イタリー
1789年、フランス革命を察したヴィジェ=ルブランは、宮廷に革命派(ジャコバン党)
が押し入る一日前に、荷物をまとめてパリを去り、イタリアに行った。
ローマでは、ギャラリーでコレッジョ、ラファエロの作品を見、オペラを観たりした。

次、ナポリに行った。ナポリには、マリー・アントワネットの妹が嫁いでいたからである。
「庭のバラの花を摘むマリア・クリスティーナ・テレジア・ブルボン」1791年。
マリアはアントワネットの姪で、後に、ナポリ、シチリア両王国の王妃となった。

LeBrunNapoli.jpg

「バッカスの巫女に扮したエマ・ハミルトン」1792年
エマは英国の肖像画家ジョージ・ロムニーのモデルだったが、世紀の美女だったので、
在ナポリ英国大使ハミルトン氏と結婚した。しかし、ネルソン提督とのダブル不倫が
世間を騒がせ、その話が映画「美女ありき」になった。
「古代ギリシアの巫女に扮するエマ・ハミルトン」という絵もあった。
(エマ・ハミルトンを知らなかったので、誰?と思って調べた。)

LeBrunLadyHamilton.jpg


6、ウィーン
ウィーンの滞在は2年ほどだった。
大使館主催のパーティで、ヴィジェ=ルブランはロシアの貴族たちと知り合い、
ロシアに行くことにした。

7、ロシア
ヴィジェ=ルブランの名声をエカテリーナ2世は知っていたので、宮廷画家として
迎えられ、皇族を多く描いた。

「エリザヴェータ・アレクセーエヴナ」1795年
エカテリーナ2世が孫のアレクサンドルの嫁にと、ドイツから連れて来た16才の
皇女。ロシアらしい服。手前に白テンの毛皮つきの赤いマントが見える。ピンクの
バラがアクセントになっている。

LeBrunRosse.jpg

「アレキサンドラ・ゴリシャーナ姫と息子の肖像」1794年
ラファエロの「小椅子の聖母」と似た構図で、赤と青が服に使われている点も
似ている。
LeBrunAnasta.jpg

1802年、革命政府が転覆したので、47歳のヴィジェ=ルブランは、フランスに
戻った。13年に及ぶ国外での生活だった。

それぞれの国で、女性の顔つき、服装が異なるのが、見ていて興味深かった。
フランスでは面長の宮廷の人が多かったのに、イタリアでは、どんぐり眼で濃い顔
になった。ウィーンの服装は地味めで、ロシアでは、赤が多く使われ独特の服だった。

フランス人だったら、当然知っているポリニャック公爵夫人、デュバリー夫人
だが、私には、宝塚の「マリー・アントワネット」に出て来たかな?くらいの認識
だった。親友E子の絵に関心がないフランス人の御主人でも、「グランパレで、
女性のほら、何て言ったっけ、マリーアントワネットの肖像画描いた人の展覧会
やってるよ」と教えてくれるほど、ヴィジェ=ルブランは、フランス人には馴染みの
画家なのだとわかった。
vigeLeBrun.jpg

展覧会場入り口。VIGEE LE BRUN と銅版に打ち出した看板が左右についている。
パリの12月は朝10時でもまだほの暗さが残っていた。


nice!(44)  コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

いなきあ [和食の店]

六本木ヒルズで映画を見た後、「どこで食べる?」
「ヒルズの中でいいわね」
ヒルズの中の店は、半分位は行ったことがあるので、「行ったことのないとこにしましょ」

いなきあ、変な名前だけど、和食っていうか居酒屋の高級版。
「あきない」を逆から読むと、「いなきあ」
九州の魚、直送の店だった。
だから、最初の突出し3品に、きびなごの唐揚げがあった。他は鯖の棒寿司と
カニとキュウリ、クラゲの酢の物。

inakia1.jpg

飲みながら食べる、いわゆる酒のアテになりそうなものを頼んだ。
上段、左から:かつお刺身、きびなごとオクラの天ぷら
中断、左から:鮑の刺身、雲丹と、、(忘れ)
下段 左から:九州の魚の煮つけ、おでん
どれも美味しかった。カウンターに案内されたので、厨房で作っている所が
よく見えた。

いなきあー.jpg 

昨日は、雛まつり。友達がお手製の自慢のバラ寿司を届けてくれた。
真ん中のお重は、高野豆腐の含め煮

雛すし.jpg


nice!(42)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理