SSブログ

映画「アイリーン・グレイ 孤高のデザイナー」 [映画 (美術関連)]

コロナでの外出自粛の日々、DVDで見た美術関連の映画を記録しておきます。

アイリーン・グレイの名前を私が知ったのは、2017年秋に
ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」という映画を見たからである。
タイトルから、コルビュジエと共同設計者アイリーンがヴィラ(別荘)を建てる話
だと推測して、3週間後にパリでコルビュジエの「ラ・ロッシュ邸」を見る予定が
あったので、丁度良いと出かけた。
映画のことは、ラ・ロッシュ邸の記事で紹介してあるので、興味のあるかたはどうぞ。


この映画は、アイリーンの生涯の物語を俳優が演じるのではなく、作品の研究者や
関係者たちが、順番に登場して、アイリーンについて生涯を追いながら語る構成に
なっている。

生い立ち:アイリーンはパリで活躍したが、アイルランド生まれのアイルランド人。
アイルランド国立博物館のグレイ研究者ジェニファー・ゴフが、写真を交えて語る。
1878年に貴族出身の母と中流階級出身の画家の父との間に生まれ、5人兄弟の末っ子。
小さい頃住んでいた家が写真で紹介されたが、郊外のお城だった。
画家の父から自由奔放な生き方を、財産家の母から経済的自由を得たのだった。

アートの世界へ:
1900年に母とパリ万博を見物し、アートに目覚める。ロンドンのスレード美術学校で
学んだ後、パリのアカデミー・ジュリアンに通い、ロンドンの店で見た漆工芸(lacquer)
作品に惹かれ、パリに住んでいた日本人の漆職人、菅原精造に師事した。
無題.png
漆:アイリーンは、漆という伝統的な素材を使って、モダンデザインのものを制作した。
椅子やテーブルの足部分に漆を使ったり、スクリーン(間仕切り)の模様に使ったりし、
それらを展示・販売の店「JEAN DESERT」を1920年パリの一等地サントノーレに構え、
菅原を雇った。ノアイユ侯爵夫人、ジャック・ドゥセ(ファッションデザイナー)、
歌手ダミアなど当時の有名人が顧客として名を連ねる人気の店だった。
写真:漆塗りに銀箔が施された長椅子「カヌー」。
Aileen_LaquerChair.jpg
「アール・ヌーヴォーの美術」東京美術 P109より


アイリーンは、漆でスクリーン(間仕切り)も制作した。(V&Aのサイトで見れます)
映画の中で紹介されたMilkyWayという青い漆の上に真珠母貝が光るスクリーンは
美しかった。漆で青を出す方法は秘密だそう。

ジャック・ドゥセの紹介で、家のインテリアも頼まれ、家具をデザインするようになる。


スティール(金属):
家具にスティールを初めて使ったのは、マルセル・ブロイヤーと言われているが、アイリーンは
それより前1919年に、サテライト・ランプで使っていた。
スティールパイプを使ってデザインした軽くて動かしやすい椅子は、今では当たり前だが、
機能に注目したデザインの椅子はアイリーンが初めてである。デザイン性の高いモダンな
家具であっても使い心地を大切にする、それが現代でも支持される理由だろう。
スチールとガラスのサイドテーブル「E-1027」はニューヨーク近代美術館の永久コレクション
に収められている。


e-1027Chase.jpg

恋人、建築:

ルーマニア人の建築家で評論も手掛けていたジャン・バドヴィッチが恋人となる。
ドヴィッチは、アイリーンの店「JEAN DESERT」の外装を手掛け、評論家としての
幅広い交友関係からル・コルビュジエを始め、当時活躍のアーティストたちを
アイリーンに紹介した。さらに、建築やデザインの出版物をたくさん読み、時流を
知るようにすすめた。アイリーンは、バドヴィッチを通して、どんどん建築にはまって
行ったのである。

設計した家:
アイリーンは、ドイツのバウハウス、オランダのデ・スティル、時流のアールデコ
などのグループのどれにも属さなかったが、たくさんの出版物を読むことにより、
時代の先端の感覚が培われていた。そのため、さまざまなスタイルの作品を残している。
映画「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」で、取り上げられた家は、
アイリーンの設計で、バドヴィッチが客をもてなすための海辺の別荘だった。
コルビュジエは、嫉妬するほどアイリーンの才能を認め、デザイン出身のアイリーンが
製図を上手く描けるように、上達を願って仕事を与えた。


アイリーンは78才の時にペルーにある古い農場の小屋の改築を地元の建築技師と
組んで手掛けた。その家は太陽光が入り、風が吹き抜けることを趣旨とした自然と
調和できる家だった。現代の私たちのライフスタイルを100年も前に作りだして
いたのである。


最後に:ポンピドゥ・センターのキューレーターのクレオが、「コルビュジエが
近代建築の父なら、アイリーン・グレイは近代建築の母だった」と締めた。


バドヴィッチが亡くなった後、アイリーンは、デザインの表舞台から消えていった。
コルビュジエは別荘「E-1027」を自分の発案と言い、アイリーンの名を伏せた。
しかし、2009年に行われたサンローランの遺品オークションで、
アイリーンがデザインした「ドラゴン・チェアー」が1950万ユーロ(日本円28億円)
という史上最高値で落札されたことから、再び脚光を浴び、映画が2本制作された。


原題:Gray Matters (グレイに関すること)
2015年、アイルランド制作


追記:yk2さんが、コメントで、アイリーンが漆を習った菅原精造について詳しく
書いている研究論文を紹介してくださいました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/63/6/63_6_57/_pdf
ここにアイリーンの作品の写真が掲載されています。

これを読むと、菅原精造は東京芸大で漆工を専攻したが、当時のカリキュラムは、
漆が仏像制作にも使われることから彫刻も学ぶようになっていた。彫刻の師は、
高村光雲で、実際に指導を受けている写真があった。菅原精造の墓には彫刻家、
漆芸家と刻まれている。
アイリーンは菅原精造と共に仕事をし、「カヌー」のような
長椅子を作る技術、家具制作を学んだと思われる。このことが後の建築への興味
につながっていった。




nice!(35)  コメント(6)