パリのモンソー公園 [絵が描かれた場所を訪ねて]
高級住宅街の一角にあり、もともとはオルレアン家の所有だったのをパリ市が
買い取った。
金で装飾された立派な門。
モネは、この公園をとても気に入り、「モンソー公園」というタイトルの絵を6枚
残している。カイユボットの作品にも「モンソー公園」がある。
モネの「モンソー公園」1876年 泉屋博古館
見つからない。150年も経っているので、木々が生い茂り、周辺のグレーの
屋根の建物は見えにくい。
これは、カイユボット「モンソー公園」1877年
深緑色のベンチは今も同じデザインのものが、使われている。
(人がすわっていたので、写真が撮れなかった)
奥へ、奥へと歩いていくと、突然、ローマ風の列柱の遺跡が現れてびっくり。
熱くなる。奥なので、人影もなく夏の日差しに照らされた廃墟。
ローマ人はここまで来たのだろうか。
コリント式列柱を移築したものだった。
他にも、旧パリ市庁舎のルネサンス様式のアーケード、東京都から贈られた
寛永寺の石灯籠など移築された遺跡が随所に見られ、歩いていて楽しかった。
見える。
おしゃれな雰囲気は、今も残っていた。
亀戸天神の藤の花 [絵が描かれた場所を訪ねて]
私は東京育ちなのだけど、亀戸はうちから遠いので、今まで行ったことがなく、
今回が初めて。
広重の「名所江戸百景」に描かれている太鼓橋と藤の花。
この絵を何度も見ているので、かねてから行ってみたいと思っていた。
太鼓橋の前景に藤の花がかかり、右に松、池に鳥 という構図。
太鼓橋は赤く塗られていた。しかも鈴なりの人、人、人。
右の藤の花が角度によっては、絵での前景のように見えるのだろうか。
太鼓橋を渡ったあと、緑の屋根だけが見えている社務殿に向かう人々。
連休中なので、人が多い。立錐の余地もなくぎっしり。
藤棚の花は盛りを過ぎたもよう。
左側に見えるのは、643mのスカイツリー。
長らく、私は、藤の花は、20~30cmくらいのものだと思っていたので、
鈴木其一の「藤花図」を見た時は驚いた。こんなに巨大な藤があるのだろうか?
想像で描いている?
花の中で、写真撮影中。
亀戸なので、池には亀が。よく見ると、それぞれ違った種類。
露店が50店出ているそうで、境内は大にぎわいだった。
Inatimyさんから、コメントで
<「北斎の橋 すみだの橋」展のお話で出てきた「かめゐど天神たいこばし」と同じ場所ですよね。>
ときかれましたが、その通りです。北斎の絵も貼っておきますね。
パリ郊外カイユボットの別荘での展覧会 [絵が描かれた場所を訪ねて]
昨年12月に、ブリヂストン美術館へ「カイユボット展」を見に行った記事を書いた。
そして、4月5日からパリ郊外のカイユボットの別荘で開かれる展覧会に行きたいと
思っていた。今年はカイユボットが45歳で亡くなってから120年。30才から35才
までの間、イエールでの暮らしの様子と風景画を80点描いた。
4月5日展覧会初日、丁度パリにいたので、イエールに出かけた。
郊外電車でパリ・リヨン駅から20分ほど。イエール駅で降り、バスに乗った。
郵便局前で降り、道を尋ねながら5分くらい歩くと、イタリア風瀟洒な建物の
カイユボット邸が見えてきた。
ここが門。白いテントが見えてるのは、初日のパーティ用の会場。
門をはいると、カイユボットの絵に描かれているローマふうの家があった。
「絵の通り!」とうれしくなる。外からガラス戸越しに室内が見えるのだが、
奥にピアノがある。ブリヂストン美術館が最近購入した「ピアノを弾く男」の
ピアノに違いない。
展覧会は、左側に見える建物(元住んでいた家)が会場だった。
今まであまり公開されなかったものを含め43点、全部イエールを舞台とした絵
が展示されていた。
とにかく広大な敷地。11ヘクタールあったと書いてあったっけ。
カーブを描く小道、背の高い木々、花壇、広い芝生。右側に見える白い建物は
キャフェテリア。テラス席もあったので、庭を眺めながら、キッシュを食べた。
カイユボットが12歳の時、事業に成功した父が、ここを別荘として購入した。
太陽が気持ちのいい場所。光と影がはっきりして、屋外での写生を重んじる
印象派の絵を描くのに丁度良い場所だったとわかる。
この白いのは、風に散った花びら。りんごの花?
散歩道を奥に進んで行くと、カイユボットの絵に何回も登場する「菜園」が見えてきた。
子供の頃読んだ「秘密の花園」を思わせる菜園入口は、絵で見て気になっていた。
中に入れるようになっていて、中では、花や野菜の栽培をしていた。
カイユボットの絵にも、菜園で働く人たちを描いたものがある。
白い石造りの菜園の壁を描いた絵は、今、見た展覧会に2枚あった。
これが菜園の絵。「Le Jaradin potager,Yerres」(イエールの菜園)1879年
これが、菜園で働く人の絵。「Les Jardiniers」(庭師たち)1879年
カイユボットは、イエールの川で泳いだり、カヌーをしたりする人を描いた。
「Baigneurs, bords de l'Yerres」(イエール川で水遊びをする人たち)1878年
「Perissoires sur l'Yerres」(イエール川でカヌーをする人たち)1877年
「Perissoires sur l'Yerres」(イエール川でカヌーをする人たち)1878年
「Peche a la ligne」(釣り糸を垂れる人)1878年
イエール川は想像より川幅が小さかったけれど、水面に木々が映る様子は、
カイユボットの絵と同じだった。
イエールは、1881年彼がここを売ってセーヌ右岸のジュヌヴィエイユに移るまで、
絵の舞台となった。明るく輝いていた時代である。1882年以降、彼は絵を発表
せず、ヨットの設計や園芸に夢中になった。なぜかはわからない。
シスレーが住んだモレ・黒田清輝が住んだグレ [絵が描かれた場所を訪ねて]
シスレー Alfred Sisley(1839~1899) はパリで生まれた風景画家。
印象派のルノアール、モネ、ベルトモリゾらと共に活動をした。
1880年代から、セーヌ川の支流であるロワン川流域のモレ・シュル・ロワン
(Moret sur Loing)の景色を多く描き、亡くなるまでの20年間そこに住んだ。
「モレの橋」1893年 オルセー美術館
半円形の水道橋のような橋、塔のある古い館、ポプラの木、輝く水面。
この景色のところに行ってみたいと予てから思っていた。
とはいえ、今でもこの景色が残っているかどうか、、。
数年前、ここに行ったNさんが、「靄の中でとってもすてきな景色だったの。
きれいなところよ~。フォンテンブローから、タクシーで行けるし。」
私が行った日は雨が降っていた。フォンテンブロー城を出て、タクシーに
15分ほど乗ると、Moret sur Loingの入口「サモア門」についた。
城壁に囲まれ中世の面影を残している小さな街。
門をくぐった大通りは、ローマ時代からある道なので、車が1台通れるだけ。
しかも、大通りはわずか100mほどで、出口の「ブルゴーニュ門」になる。
門を出たところが、ロワン川で、絵にあるアーチの橋がかかっている。
これは橋の上からの写真。中州にポプラの木と家があった。
左端の塔のような建物は、まさしくシスレーの絵に登場する古い館!
橋の逆方向は、のどかで広々とした景色。
「Moret sur Loing」 個人蔵
やはり左端にアーチの橋があって、川の水が光をうけキラキラしている。
中世の面影を残す建物がこの景色に溶け込む。
「驟雨の中のモレの橋」1887年
雨で景色がゆらいでいるこの絵は、この日の景色に近いかしら。
大通りは一車線だけなので、タクシーは途中で止まるわけにはいかず、
降りて街を散策することはできなかった。
橋の横で車を停めて待っていてもらった。折からの雨で撮影スポットは
限られてしまうけど、一目でわかるシスレーの描いた絵の世界だった。
シスレーがモレに住んでいた頃、モレから20kmの地「グレ」Gres sur Loingは、
外国人画家、音楽家のコロニーであった。1888年、黒田清輝は、法律学の研修で
フランスに留学。画家の藤雅三がラファエル・コランに師事する通訳を毎回つとめた
ことから、自分もコランに弟子入りをし、画業に転向した。
「読書」1891年、この絵がフランスの画壇で入選し、黒田は実力を認められた。
こちらは、「ポプラの黄葉」1891年。明るい色彩の「外光派」の描き方。
当時、印象派は過去のものになりつつあり、新印象主義の「外光派」と
「象徴派」の時代だった。外光派のリーダーは、バスティアン・ルパージュ
だった。
10年後、黒田の住んでいた下宿に、日本から浅井忠が留学してきた。
「グレーの森」 1901年 外光派のように見えるがこれは水彩画。
黒田の住んでいた通りは、今、「Rue KURODA seiki」と名付けられている。
タクシーの運転手さんは、Rue KURODA seikiを知らなかったが、ナビで
検索して、「お~、これか、わかった」と連れていってくれた。
庭から外に柳の枝がはりだしていた。浅井忠に「グレーの柳」という柳並木の
絵があったことを思い出す。
中には、入れないので、こういう看板がかけてあった。
この頃には雨がひどくなってきたので、ロワン川の岸辺に立って、浅井忠の
「グレーの洗濯場」を探すのは断念し、帰るために駅へ向かった。
*uminokajinさんが、グレーを訪ねたときの記事です。
コロー、浅井忠、児島虎次郎らが描いた低いアーチ型の橋、廃墟の写真が、
まさに、グレーの景色なのです。ごらんください。
ルーベンスの家 [絵が描かれた場所を訪ねて]
ルーベンスは若くして成功した画家だったので、家がとても立派です。
弟子もたくさんいて、自宅が工房になっていました。
これが入り口。屋根には青銅の等身大の彫刻がついています。
↓は中庭。手前の花壇は3月だったので、まだ花が植えてありませんでした。
ルーベンス33歳、結婚して間もない頃、妻イザベルとの自画像。
ルーベンスの生涯に関しては、Ikesanが「王の画家にして画家の王」という記事を書いて
いらっしゃるので、そちらを見てください。
前回「プラハ国立美術館展」に、ヤン・ブリューゲルの花の絵を載せましたが、
ヤン・ブリューゲルが花環を描いたあとに、ルーベンスが人物を描きいれた共同作品。
↓
多いことでしょう。
↓ネロが見たくてたまらなかった ノートルダム教会のルーベンスの祭壇画 「キリストの降架」
ここのステンドグラスがとてもきれいでした。
モーリス・ドニ [絵が描かれた場所を訪ねて]
yk2さんの「アールヌーボーの画集」
http://blog.so-net.ne.jp/ilsale-diary/2006-12-wine09
にまつわる話を読んで、思い出したのは、「モーリス・ドニ」。
私がこの画家の名前を知ったのは、2003年初夏に府中市美術館で開催された
「モーリス・ドニ展」でした。
当時、この美術館のすぐそばに住んでいたので、広告に使われていたこの宗教画
のような不思議な絵↓ が何か気になって最終日に見に行きました。
白の静けさが何ともいえず、心に残るいい絵。
版画、デッサン、ポスターなどもあり、展示作品数が多く、とても見応えがありました。
私は、アールヌーボー風のものが、華やかだけれど線がやさしくて美しいので、とても
好きになりました。ずっと見ていても飽きないです。
↑の絵の華奢な額縁は、ドニ自身がデザインしたもの。
ドニは、1900年頃活躍。フランスの象徴主義を代表する画家のひとりです。
象徴主義は、それまでの印象派の写実から離れ、人間の内面や超自然的なものを象徴という
方法で表現し、脚光をあびました。
ドニは、ゴーギャン、ボナールらと「ナビ派」(預言者)というグループを作り活躍しました。
↓の絵は、妻と食事をする自画像。
背景の森のような木々が、私にはルネ・マグリットの木に似ているように見えるけど。。
もっとたくさんドニの作品を見たいと、昨年の冬、パリ郊外、サンジェルマン・アンレイ
にあるドニが晩年を過ごした元修道院の建物「モーリス・ドニ美術館」に行きました。
しかし、休館日ではないのに、どういうわけか、その日は休みだったのです。
車で連れて行ってくれた友達のご主人は、「フランスではこういうことはよくあるのさ」と
言ってましたが。。(涙)
1月下旬まで、パリのオルセー美術館で「モーリス・ドニ展」が開かれているので、
見に行く予定です。ちょっと楽しみ。
今、都美術館で開催中の「エルミタージュ美術館展」にもドニの作品があります。
「婚礼の行列」という横長の絵。
<付記>
この日はクリスマス休暇だったそう。日本のお正月と同じですね。
後日、行った時の記事は、こちらです。