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メアリー・カサット展 [展覧会(西洋画)]

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横浜美術館へ「メアリー・カサット展」を見に行った。
私がカサットという名前を初めて知ったのは、1999年、アメリカ、NYのメトへ行った時、
「メアリー・カサット、印象派のアメリカ人」という特設コーナーがあり、モネの絵のような
緑の庭に赤い花、女性が針仕事という優しい絵が心に残っている。

その後、アメリカで、フィラデルフィア、ボストン、ワシントン、シカゴと美術館を訪ねると、
カサット作品が何点も展示されていたので、アメリカの誇る画家なのだとわかった。

9年前、yk2さんの「メアリー・カサット」2部作を読み、カサットがどういう人なのか、
どんな絵があるのかがわかり、ますます興味を持ったので、今回の展覧会を楽しみに
していた。日本では35年ぶりの回顧展!
そこで、私なりにわかったカサットの画業の流れを記録。

1、画家としての出発
カサットは、1844年アメリカ・ペンシルヴァニア州ピッツバーグの裕福な家庭に生まれた。
母はフランス語も話す教養豊かな人だった。7歳の時、次兄の病気療養のためヨーロッパへ渡り、
パリとハイデルベルグで4年間を過ごす。16才の時、ペンシルヴァニア美術アカデミーに入学。
もっと絵の勉強をするために21歳の時、父の反対を押し切ってパリへ留学したが、国立美術学校は
女性の入学を認めていなかったため、ジェロームに師事し、ルーヴル美術館で模写に励んだ。
また、パリ郊外のバルビゾン村にも出向き、風景画や風俗画を学んだ。24歳で絵がサロンに入選。
しかし普仏戦争がおきたため、アメリカに帰る。
ピッツバーグの司教から、コレッジョの作品の模写を頼まれ、パルマに向かった。
パルマでは、銅版画の技術も学んだ。その後、スペインに渡り、マドリードのプラド美術館で
ベラスケス、ムリーリョなどを研究した後、セビーリャに長期滞在し、セビーリャの人々を描いた
「闘牛士と少女」がサロンに入選した。
セビーリャ滞在中の大作 「バルコニーにて」 1873年
初めて男性を描いた作品。バルコニーにたたずむ人物という伝統的主題だが、人物の表情、
身振り、華やかな衣装が正確な観察の下、みごとに描かれ、大きな賛辞をあびた。
スペイン色の強い絵である。

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2、印象派との出会い
カサットは1874年、30才の時、パリに居を構える。
実力はパリの画壇で認められるようになったが、サロンの因習や審査に疑問を持ち始めていた。
1875年頃、画廊のウィンドウに飾られたドガのパステル画に衝撃を受けたカサットだったが、
その後、ドガの方から、印象派展への参加を薦められ、快諾した。
印象派は「都会に生きる人々」を主題に描いていた。丁度、両親と姉のリディアがアメリカから
パリに移住してきたので、カサットは家族の日常生活を描いた。

「桟敷席にて」 1878年
当時のパリで劇場は華やかな社交場であった。
女性は当時の流行の黒いドレスで、芝居を熱心に見つめている。奥には身を乗り出して
女性を見つめている男性がいる。

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1879年、カサットは、ドガやピサロと共に版画誌「昼と夜」を企画、銅版画の研究に励んだ。
「オペラ座の桟敷席にて」 1880年
印象派展に出した作品。モデルは姉のリディア。桟敷席の装飾部分にに工夫をし、明暗を
際立たせることで劇場の華やかな雰囲気を出している。

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これは、ドガの作品。「ルーヴル美術館考古展示室にて、メアリー・カサット」 1879年
版画誌「昼と夜」のための作品。日本の浮世絵版画の効果を銅版画で出す試みをドガは
行っていた。
ルーヴル美術館のエトルリアの石棺彫刻展示の前にいるカサットと姉リディア。
カサットは傘をステッキ代りにして立ち彫刻を見、リディアは腰かけてガイドブックを読んでいる。

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「眠たい子供を沐浴させる母親」 1880年
母子像の最初期の作品で、印象派展への出品作。
視線を交わす母と子。全体は印象派ふうに大振りに描かれているが、母親の手は克明に
描かれている。赤ん坊の足が長いのは、コレッジョの母子像の影響。

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「浜辺で遊ぶ子供たち」 1884年
人物を画面いっぱいに収め、俯瞰的な視点で捉えているのは浮世絵的手法。
輪郭線をはっきり描かない印象派的手法でなく、輪郭線を描くことで子供をくっきりと
うかびあがらせている。

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3、新しい表現、ジャポニズム
カサットは、1890年に国立美術学校で開催された「日本版画展」で見た浮世絵に感激し、
多色刷り銅版画の制作に没頭した。女性の日常を描いた版画10点組は浮世絵の揃い物に
倣ったのだろう。
洗練された輪郭線、平面性、単純化された形態。カサットは摺り師を雇い多色刷りに意欲を
燃やした。

湯あみ(たらい) 1890年
版木を2枚用い、色の配置と図柄のために20以上ものステートを費やした。
右下に、摺り師ルロワとカサットと書着こむほど、摺り師の仕事を尊重していた。
水彩画に近いがはるかに力強い。

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「沐浴する女性」 1890年
構図、色彩、雰囲気が調和した作品。衣服の縞模様も日本っぽい。
ドガは、背中表現のみごとさを褒め、この作品を画商から購入した。

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「午後のお茶会」 1890年
刷り上がった後に、ティーカップに金色の縁取りを描いて入れた作品。
実物では、金色が明快にアクセントになって絵に華やかさをもたらしている。

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カサットはアメリカでも有名になっていたので、シカゴ万博「女性館」のための壁画依頼を
受けた。テーマは「現代の女性」であったので、カサットは「果実をとる女性」をモチーフとした。
知恵の木からその実をとり、赤ん坊や少女たちに手渡す女性、つまり女性教育の促進を
エレガントに描いた。

「果実をとろうとする子供」 1893年
チラシに使われている絵。
シカゴ万博の「果実をとる女性」をさらに発展させ、母子の表情をクローズアップし、聖母子像
を想起させる象徴性をもたせた作品。しっかり子供を抱く母のたくましさと果実をとろうとする
子供の生命力が伝わる。

4、母と子、身近な人々
この時代のカサットは、母と子をたくさん描いた。
1880年の「眠たい子供を沐浴させる母親」のような印象派の明るい色彩を残しつつ、
かちっとしたルネサンスの人物表現と浮世絵の平面性を取り入れて独自の母子像を描いた。

「母の愛撫」 1896年頃
母と子が見つめあっている。大胆なクローズアップ。子供はよくこんな手つきで母の顔を確かめる。
重量感ある手の表現。

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マリー=ルイーズ・デュラン=リュエルの肖像 1911年
印象派の画家たちを支援した画商ポール・デュラン=リュエルの孫。
パステル画
晩年、視力が衰えてきたカサットは油彩より早く仕上げることができるパステルを多く利用した。

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[むかっ(怒り)]カサットはアメリカにヨーロッパの美術のコレクションをもたらしたという点でも注目される人だ。
まずは、ペンシルヴァニア鉄道の社長だった兄にドガ、モネ、ピサロなどの作品を薦めて購入させた。
それらは現在、フィラデルフィア美術館にある。また後に大富豪ハヴマイヤー夫人となったルイジーヌ
とは10代の頃からの親友で、共に展覧会に足を運ぶうち、ルイジーヌの美術知識や審美眼が磨かれ、
コレクションを始めた。ハヴマイヤーコレクションは、19世紀フランス絵画だけでなく、イタリア、オランダ、
スペインの古典絵画も含まれており、それらはNYのメトロポリタン美術館に寄贈された。


この展覧会には、カサット関連ということで、ドガが「踊りの稽古場にて」など6点、ベルト・モリゾ3点、
ピサロ3点、エヴァ・ゴンザレス、フェリックス・ブラックモンの妻マリー、ブグローの妻エリザベスの絵も
展示され、カサットが持っていた北斎の「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」各2点、歌麿の浮世絵4点
喜多川相悦の「秋草花図屏風」も見れ、内容豊富で期待以上の展覧会だった。


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