南薫造展 [展覧会(西洋画)]
南薫造という名前は、初めて聞く人が多いと思う。
私が南薫造を知ったのは、yk2さんの日本の版画作家紹介の記事で、「畑をうつ」と
いう木版画を見て、ほのぼのとしたやさしい風合いに好感を持ったからである。
と同時に、描かれた昔の瀬戸内海の素朴さに、昔はこんなだったのね、と思ったりした。
というのも、母が瀬戸内海に面した広島県で育ち、尾道に親戚がいるので、最初に
汽車で行った旅が海が目の前の尾道、渡し船で行く向島で、以来何度か行き、親しみがある。
私が南薫造を知ったのは、yk2さんの日本の版画作家紹介の記事で、「畑をうつ」と
いう木版画を見て、ほのぼのとしたやさしい風合いに好感を持ったからである。
と同時に、描かれた昔の瀬戸内海の素朴さに、昔はこんなだったのね、と思ったりした。
というのも、母が瀬戸内海に面した広島県で育ち、尾道に親戚がいるので、最初に
汽車で行った旅が海が目の前の尾道、渡し船で行く向島で、以来何度か行き、親しみがある。
チラシに使われている油彩画「少女」(1909年)を見た途端、アンリ・シダネルの
丸いテーブルがあるテラスの絵が浮かんだ。”南薫造は木版だけでなく、こんな可愛い
少女を描いていた。光あふれる画風、きっとパリに留学したのね” というわけで、
見たい展覧会リストに入れておいた。
3月、三菱一号館美術館で「コンスタブル展」を見た帰り、会場の東京駅ステーション・
ギャラリーに寄った。
没後70年の回顧展なので、絵は年代順に展示されていた。
南薫造(1883~1950年)は、広島県生まれ。美校(東京芸大)に進学。岡田三郎助に
師事した。休暇で帰郷するたびに、瀬戸内海や近隣の景色を描いていた。
瀬戸内海(1905年)油彩
丸いテーブルがあるテラスの絵が浮かんだ。”南薫造は木版だけでなく、こんな可愛い
少女を描いていた。光あふれる画風、きっとパリに留学したのね” というわけで、
見たい展覧会リストに入れておいた。
3月、三菱一号館美術館で「コンスタブル展」を見た帰り、会場の東京駅ステーション・
ギャラリーに寄った。
没後70年の回顧展なので、絵は年代順に展示されていた。
南薫造(1883~1950年)は、広島県生まれ。美校(東京芸大)に進学。岡田三郎助に
師事した。休暇で帰郷するたびに、瀬戸内海や近隣の景色を描いていた。
瀬戸内海(1905年)油彩
この頃の日本での流行りは、水彩画だったので、1907年、南は水彩画を学ぶために
英国に留学をする。そして、ターナーの光や色を真似、透明感あふれる水彩画を学んだ。
光あふれる外光派の技法も学んだ。チラシの絵「少女」」は、留学中の作品。
「座せる女」1908年も留学中に描かれた。
英国に留学をする。そして、ターナーの光や色を真似、透明感あふれる水彩画を学んだ。
光あふれる外光派の技法も学んだ。チラシの絵「少女」」は、留学中の作品。
「座せる女」1908年も留学中に描かれた。
「夕に祈る」も留学中に描かれた。
南は、従弟のすすめで、若き日にキリスト教の洗礼を受けている。
「うしろ向き」もやはり留学中の作品。ちょっと外に開いた足がかわいい。
ロンドンの景色の絵や、バーン・ジョーンズの模写、ヴェニスの絵もあった。
留学中は、陶芸家の富本憲吉と共同生活をし、共に、木版画の制作に勤しんだ。
彼ら2人は、木版画の下絵はもちろん、彫るのも摺るのも、自分で行った。
帰国後、数々の展覧会で受賞をし、脚光をあびた南薫造。
代表作「六月の日」はこの頃の作品である。
点描を用いて、六月、光を受ける初夏の農村の爽やかさを描いている。
留学中は、陶芸家の富本憲吉と共同生活をし、共に、木版画の制作に勤しんだ。
彼ら2人は、木版画の下絵はもちろん、彫るのも摺るのも、自分で行った。
帰国後、数々の展覧会で受賞をし、脚光をあびた南薫造。
代表作「六月の日」はこの頃の作品である。
点描を用いて、六月、光を受ける初夏の農村の爽やかさを描いている。
自分で彫り摺った「魚見」1911年頃
自分で摺っているので、同じ版木で色を変えたもの4枚が展示されていた。
自分で摺っているので、同じ版木で色を変えたもの4枚が展示されていた。
インド旅行をした時、描いた「タージマハール遠望」、アグラの廃墟など
インドの水彩画が12枚あった。
台湾、朝鮮・開城での水彩画、関東大震災の東京スケッチもあり、歴史を見ているかのようだった。
作品は主に風景画だが、静物画も描いている。
「りんご」(1916年)
インドの水彩画が12枚あった。
台湾、朝鮮・開城での水彩画、関東大震災の東京スケッチもあり、歴史を見ているかのようだった。
作品は主に風景画だが、静物画も描いている。
「りんご」(1916年)
1932年から43年までは、美校(東京芸大)の教授を勤めたため作品数が少ない。
退官後は、故郷広島で暮らし、身近な人々や近辺の景色を描いた。
晩年の画風には、フォービズムの影響がみられる。敗戦後と思えない明るい色彩。
「曝書」(1946年)
晩年の画風には、フォービズムの影響がみられる。敗戦後と思えない明るい色彩。
「曝書」(1946年)
「日本的洋画」と解説があった。
若き日に留学をして、身に着けた西洋の画風。油絵、水彩画。それを基本に
日本の風土、アジアの景色を描き、木版画という分野を広めた。
「日本洋画」の先駆者、黒田清輝より17才年下で、黒田の弟子、岡田三郎助が
師である。
南薫造の展覧会は、広島以外では、初めてである。 4月11日まで。
若き日に留学をして、身に着けた西洋の画風。油絵、水彩画。それを基本に
日本の風土、アジアの景色を描き、木版画という分野を広めた。
「日本洋画」の先駆者、黒田清輝より17才年下で、黒田の弟子、岡田三郎助が
師である。
南薫造の展覧会は、広島以外では、初めてである。 4月11日まで。