SSブログ
☆彡Paris  展覧会 ブログトップ
前の6件 | 次の6件

ルドン展(夢の王子) [☆彡Paris  展覧会]

 オディロン・ルドンの回顧展をパリのグランパレで見た。
前記事の「17世紀風景画展」より、こちらの方がずっと賑わっていた。
「夢の王子」という副題は、ルドンの作品が、漂いつつ、瞑想に耽りつつで、
すべては彼の夢で包まれていたから。

LaCelluied'or.JPGThe Golden Cell(1902)

 ルドンは、1840年ボルドー生まれ。印象派の画家たちとほぼ同世代。
17歳の時、植物学者Clavaudから、目に見えない超自然的なものの存在を
教えられ、ボードレール、ダーウィン、アラン・ポー、ヒンズー教の詩などに
憧れた。ドラクロワのロマン主義的絵画も好みだった。
パリに出て建築を学び、22歳でボーザール(美術学校)を受験するが不合格。
絵に転向しようと、ジェロームの教室に通うが、肌に合わず、すぐに辞める。

ボルドーへ帰ったルドンは、リトグラフを習い、デューラーやレンブラントの
素晴らしさに目覚めた。普仏戦争への従軍もあったため、デビューは遅く、
39歳(1879年)の時に、リトグラフ「夢のなかで」を発表した。
夢のような無意識の世界にのめりこんでいた彼は、「黒」の世界に浸っていた。
「黒は、最も想像力をかきたてられる色」と、彼は述べている。

 2007年夏に、東京Bunkamuraのミュージアムで、「ルドンの黒」という
展覧会があった。よく見ればかわいいけれど、ぱっと見、グロテスクな蜘蛛。
この展覧会に行ったものの、感想記事を書く気にはならなかった。 

Redonsnoir.jpg   

左:ルドン25歳の作品「木の3つの幹」 
右:エドガー・アランポーの作品を意識したアルバム「ポー」の原画、
「無限へと向かう不思議な気球のような眼」(1882)

TroisTroncs d'Arbres.JPG L'oeil comme un ballon.JPG

この時代は、ポーのゴシック文学、ボードレールの「悪の華」、マラルメ「牧神の午後」
のように神秘的なものや象徴的なものに重きがある世紀末文学がはやっていたので、
ルドンは文学者たちから熱烈に支持され、挿絵を描いたりもした。

殉教者(1877)
この絵には、グロテスクさより深い精神性が感じられると思った。

Martyr.JPG

  1890年、50歳のとき、色と結婚したかのように、色彩の世界にのめりこむ。
上の「殉教者」に通じるものがある「眼を閉じて」(1904)は、フランス国家買い上げ
作品となった。
ApreslLeReve.JPG


左:「ゴーギャンへのオマージュ」(1903年)
右:「長い首の花瓶の野の花」(1912年)
豊かな色彩の花。ボルドー郊外の自然の中で育ったルドンは、植物が好きだった。

Hommage a Gauguin.JPG  RedonFleurRouge.jpg

30~40cmと比較的小さい作品が多いルドンだが、後年は、神話を主題とした
大きな作品が多い。
「アポロンの戦車」(1910年) 89×70cm

Le Char D'Apollon.JPG 

「ステンドグラス」(1907年)
左下にキリストの屍を抱くマリアが見える。

LeVitrail.JPG

「ブッダ」(1905年)
この作品の横には、キリストの絵が並べてあったので、西洋対東洋の対比。
関心を持って、じっと眺めている人が多かった。

LeBouddha.JPG

 最後は、ルドンが室内装飾をした部屋。黄色を基調としたステンドグラスのようなパネル。
日本の美術館から借りてきたルドンの屏風も置かれていた。当時がジャポニズムの時代
であったことがわかる。
部屋の様子は、このサイトの動画で見れます。

時代の変遷と共に、ルドンの絵が移り変わっていった様子が、見て取れ、とても面白かった。
(6月20日まで開催)


17世紀の風景画展 [☆彡Paris  展覧会]

  パリのグランパレで、「17世紀の風景画展」(6月6日まで開催)を見た。
1600年から1650年のローマの風景、カラッチ、プッサン、ロラン、、が副題。

NatureetIdeal.JPG fig0

 西洋美術で17世紀に、風景画は、ひとつのジャンルとなった。
それ以前、風景は絵画の背景に描かれる要素でしかなかった。

 風景画を確立したのは、アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)である。
カラッチは、イタリアのボローニャの画家一族の家に生まれた。
バロック様式の画家としての才能を認められ、ファルネーゼ卿からローマによばれた。
新しく建てる宮殿の壁画とギャラリーの装飾天井画を依頼されたのである。神々の
愛の神話を描くようにとのことだった。
 これと並行して、彼は描きたい絵に取り組んだ。風景画である。
丘、川の水、澄んだ大気、遠くにある光、木と葉が作る影、色の対比、日常生活を
営む人々、これらを配置し、実在しない理想の場所を設定して描いた。この展覧会
のポスターに使われている絵は、「Paysage fluvial(河のある風景)」 (ワシントン
ナショナルギャラリー蔵)である。(fig0)

 風景画がジャンルとして認められるまでは、風景は主役ではなく、宗教画のドラマ性
を引きたてるためのものだった。カラッチの「アブラハムの犠牲」(fig1)での主役は、
左上のアブラハムである。

CarracheSacrificeAbraham.JPG fig1 :Louvre

  それが、同じ宗教画でも、「エジプトへの逃避行」(1602~1604)になると、
人物と風景の主従が、ちょうど同じくらいになっている。
この絵は左右対称、背景に建物を描いたことで、風景の重みが増している。
アルドブランディーニ枢機卿の宮殿のチャペルの扉上部の装飾絵であった。
CarracheFeuiteEgypt.JPG
 (この絵は、展示予定で、図録にも載っていたが、借りれなかったとのこと。)

カラッチが、ローマの田園風景を理想の風景としたのは、、「すべての道はローマ
に通ず」という諺もあるほど、ローマは歴史ある永遠の都として確立し、聖なる
テーマにふさわしかったのである。

(昨年のカポディモンテ美術館展は、ファルネーゼコレクションだったので、カラッチ一族の絵も展示されていた)

この時代は、いろいろな国から画家たちがローマに勉強に来た。フランドル地方の
ヤン・ブリューゲル(fig3)もローマで学んだ。先輩のパウル・ブリルが、カラッチ流の絵
「カンポ・ヴァチーノの眺め」(fig2)で、成功していたからである。
カンポ・ヴァチーノは古代ローマ時代の凱旋門やコロッセオが残る場所で、クロード・ロラン
もここを描いている。
昨年、ターナーが描いたカンポ・ヴァチーノの絵が過去最高額40億円で、落札され、ニュースになった。

PaulBrilVueCampoVaccino.JPG fig2
牛市場のあるカンポ・ヴァチーノの眺め(1600)  Paul Bril(1554-1626)  
  ドレスデン州立美術館

JanBrueghelPaysageSaintFulgence.JPG fig3
聖Fulgenceのいる風景(1595) Jan Brugel(1568-1625)
  ウィーン歴史美術館

 フランスのクロード・ロランは20歳でローマに行き、フランドル地方から来た
画家たちと住んだが、彼らは皆、独学であった。後にアゴスティーノ・タッシ(fig4)
と共同制作をし、タッシからいろいろ学んだ。タッシは、絵に古代遺跡を取り入れ、
過去への郷愁を描くのが上手だった。
AgostinoTassiPaysage.JPG fig4
風景と呪い術の場面 (1625) Agostino Tassi(1578-1644)
 ボルティモア・ウォルターギャラリー

ロランの絵は主役が風景である。光と大気、空、木々、小さく描かれた人物が
理想の田園風景の中に溶け込む。(fig5)
LorrainPaysageBerger.JPG fig5
牧者のいる風景(1634)  Claude Lorrain(1600-1682)
 ロンドン・ナショナルギャラリー

ロランも神殿などの古代遺跡を絵にとりこみ歴史的な雰囲気を持たせた。
さらに彼は空の様子を細かく観察し、巧みに表現した。(fig6,fig7)
枢機卿や外交官がロランの絵を気に入り、フランス上流階級から多くの注文が来た。

Lorrain RaphaelTobie.JPG  ClaudeLorrainVueCapitale.JPG
fig6:大天使ラファエロとトビアス(1639)   fig7:Capitoleと港の眺め(1636)  
 マドリッド、プラド美術館                         Louvre

展覧会場で、明るく人目をひくこの絵は、フランチェスコ・アルバーニの作品。
(fig8)   彼はカラッチの弟子で、ヴィーナスを描くのが得意だった。
この絵は、クイリナーレ宮殿礼拝堂の絵として制作された。

 AlbaniToilletteVenus.JPG  fig8
 ヴィーナスの化粧(1617) Francesco Albani(1578-1660)
 ローマ ボルゲーゼ美術館      

 最後は、ニコラ・プッサン。プッサンはフランス人で、イタリアに来た初めは、
叙情的雰囲気の神話画を描いていた(fig9)が、同じフランス人のロランとも
親交があり、カラッチ風の古代遺跡をとりいれた絵を描くようになった。

プッサンの絵で重要なのは、「パトモス島の聖ヨハネのいる風景」(fig10)
人物が風景の中に溶け込み、中央で左右対称の構図は数学的な整合性を持っている。

ロランと同様、プッサンの絵も、ルイ13世の宰相リシュリーに好まれ、後に
ルイ14世の教育係となるジュリオ・マザリーニを通して、フランスに運ばれた。
ルイ14世は、プッサンの絵をたくさん所蔵し、それらが今、ルーヴルの所蔵品
となっている。

 PoussinBacchanaleguitter.JPG fig9
アンドロス島の大酒宴(1627) Nicolas Poussin(1594-1665) :Louvre

PoussinPaysageAvecSaintJean.JPG fig10
「パトモス島の聖ヨハネのいる風景」(1640) Nicolas Poussin(1594-1665)
 シカゴ 美術研究所

[ひらめき] ルーヴル美術館に、ロランやプッサンの絵は、かなりあるが、この展覧会のために、
いろいろな美術館から、重要な絵を借りてきていて、ストーリー性のある構成で楽しめた。


ミロの彫刻展(マイヨール美術館) [☆彡Paris  展覧会]

 かわいいポップなミロの絵は、よく知られているけれど、彫刻はあまり知られていない。
ジョアン・ミロ(1893~1983)は、20世紀スペインを代表する芸術家。
50歳を過ぎてから、まず、陶器に取り組み、次にブロンズの彫刻、その後、野外に置く
モニュメントを制作した。50歳を過ぎてからといえど、80歳まで後世に残る作品を作り
続けた。

 彫刻作品には、Femme(女性)というタイトルのものが、多かった。
丸い形で、故郷カタロニアの女神の母性を表現。ブロンズで制作後、
素朴さと古さを出すために、緑青をかけてある。
「女性の頭」1967年          「Personage」(人物)1968年
                        こちらは男性。何でわかるかって、それは(笑)
Miro2.JPG    Miro8.JPG図録の表紙

 
 次にミロは、赤、青、黄色の原色を使う表現を始めた。
『詩が単語の集合であるように、ミロにとって彫刻は、ものの集合の実験。
作品のタイトルは、「Girl Escaping」(1968)(左)、
「Man and woman at night」(1969)(右)、とhaikusを読むようだ』
と、展覧会のカタログに書いてあった。(haikuは英語なんですね。)

Miro5.JPG     Miro1.JPG

 カルダーが始めた動く彫刻が「モビール」。
ミロもモビールっぽい造形のものを作った。
女性(1970)     私にはペンギンのように見えるけど、動きがあって楽しい。

Miro9.JPG

そして、私が好きだったのは、どっしりとした「犬」(1974)        Miro3.JPG                                                                   


 ミロは、同じスペイン、カタロニア出身のダリ、ピカソとほぼ同年代。若い頃、
フランスに留学し、多くの画家たちと親交を持ったが、カタロニアに戻った。
2つの大戦を体験し、フランコ独裁政権の下で虐げられたカタロニア、と、辛い
生涯だったが、作品に多く登場する太陽、月は突き抜けて明るい。
描かれる動物たちは自然で、童心のような汚れなさ、はっきりした配色は、
リズム感があって、気持ちいい。
     

 ミロは、大きな野外作品、モニュメントも作った。
南フランスのサン・ポール・ヴァンスにある「マーグ財団美術館」の庭に作品が、
たくさんあるので、そのようすをビデオで見せていた。

ガーゴイル(1964)
Miro7.JPG

 1970年代に、この庭をデューク・エリントンが訪れ、作品を見た後、ミロと歓談。
即興で、「ミロへのブルース」を演奏し、彼に捧げた。その時の様子もビデオで
流れていた。

 

 [位置情報] この展覧会の会場は、パリ7区、官庁街にあるマイヨール美術館。
彫刻家マイヨールのモデルであったディナが、古い館を買い取り、美術館とした。
普段は、マイヨールの作品とコレクションが展示されているが、こういう企画展の
時は、マイヨールものは、ひっそりと、ほんの数点だけの展示。

 MuseMaillol2.JPG

  マイヨールは最初、画家だった。パリの美術学校に学び、ナビ派に心酔するが、
目を悪くし、彫刻に転向した。
 (詳しくは、yk2さんの「アリスティード・マイヨール」記事を参考になさってください)

 MuseMaillol4.JPG

 MuseMaillol3.JPG

  代表作「地中海」のある部屋には、彼の描いた絵、コレクションした絵が、
ひっそりと置かれていた。

 

 マイヨール美術館の隣は、東京にもお店があるケーキ屋さんの「Dalloyau」ダロワイヨー。
ケーキを買ったけど、あらら、こんなに。。。
dalloyau.JPG


マダム・グレ回顧展(ブールデル美術館にて) [☆彡Paris  展覧会]

 マダム・グレ(1903~1993)の回顧展に行った。
マダム・グレは、戦後のパリのオートクチュールを代表するデザイナー。
作品を保存している装飾美術館の主催だが、会場はブールデル美術館。
彫刻の美術館で、ファッションの展示とは意外。

gres0.JPG

 ブールデル(1861~1929)は、ロダンの弟子。作品は5m級の大きいものが
多く男性的。ブールデルの住んでいた家が、美術館となっている。

 第一室はブールデルのアトリエ。彼が使っていた当時のままなので、彫刻が
雑然と置かれている。傑作「瀕死のケンタウロス」の圧倒的存在感!
ガラスのケースにはいったトルソー。鮮やかな色の優美なドレス。クレオパトラの
イメージ。ギリシア繁栄の時代が浮かぶ。

gres1.JPG

gres3.JPG


 明るい第二室は、現代的な服。トルソーには緑の服。ケースの中には、
スポーティな赤い服が広げて展示されていた。
作品のうしろに見えているのは、ブールデルの彫刻。「シャンパトゥール夫人
と赤ちゃん」

gres4.JPG gres5.JPG

 第三室からあとは、広い展示会場。

gres6.JPG

友達E は、元々ファッションの仕事だったので、絵の展覧会は、さっと見終わるのに、
これは違った。じっくり眺め、「ここは手縫いだわ」とか、「ドレープに重みを持たせる
のに、この処理よ」などと、解説してくれる。

gres8.JPG

所々に置かれている彫刻が、展示された服を引き立てている。

グレは、プリーツの女王と呼ばれたそうで、実に美しいプリーツの数々。
日曜日のせいか、意外なことに、男性客が多かった。

gres9.JPG

gres10.JPG

gres11.JPG gres15.JPG

右はベルト。細いウェスト。エリザベート50センチの伝統でしょうか、pistaさん(笑)

 

 テラスには、ブールデルの作品が並ぶ。代表作「弓を引くヘラクレス」。
壁のレリーフもブールデル作品。
意外に思えるが、ブールデルの弟子は、細長い彫刻のジャコメッティ。

gres14.JPG

 裏庭もあった。ここは訪れる人も少なく静かだった。
「聖母子」、隣は「瀕死のケンタウロス」(山梨県立美術館の彫像、yk2さん記事
E は、アルゼンチンの大佐の騎馬像を「勇ましくていいわ」と、気に入って、
「ここで写真撮って」と言ったが、大きいので全部を入れるのが大変だった。

gres16.JPG

grespublicite.JPG

 ブールデル美術館は、モンパルナス駅の近く。
帰り道、ここでも、ずらっと植えられた桜が満開できれいだった。
後のビルはモンパルナスタワー。

gressakura.JPG

  翌日、買ってきた服をE に見せると、笑って、「あなたって影響されやすいのねー。
昨日、見たグレのに似てるじゃない。ほら~プリーツだし」。言われてみれば、
たしかにそうだった。

[かわいい]<付記> Inatimyさんが、パリ郊外の「モーリス・ドニ美術館」にいらしたのですが、
そこの庭に、ブールデルの代表的な彫刻が置かれています。ご覧ください。


ターナーと巨匠たち展 [☆彡Paris  展覧会]

 昨年3月のことだが、パリの「グランパレ」で、「ターナーと巨匠たち展」を見た。
Turner.JPG

 パリの「ピカソと巨匠たち」展の成功に刺激されたイギリスが、テート・ギャラリーで、
「ターナーと巨匠たち展」を開催した。終了後、パリ、マドリッドと巡回した大企画展。

 ターナー(1775~1851)は、イギリスを代表する風景画家。
ロンドンの貧しい理髪師の子として生まれ、13歳のとき、風景画家に弟子入り、
14歳で、ロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学。早くから才能を発揮し、
24歳で、ロイヤル・アカデミー準会員、27歳で正会員となった。「孤高のライオン」と
よばれるほど、突出した才能だった。

 風景画家のターナーは、スイスに旅した帰り、フランスに寄り、10年前にできた
ばかりのルーヴル美術館に行った。そこで、ティツイアーノ、プッサン、クロード・ロラン
ら、古典の巨匠たちの作品に接し、この巨匠たちを越える日を目標に、模写に励んだ。

 ティツイアーノ風の絵、聖母子(1803年)
Sainte Famille.JPG

 巨匠作品を意識して同じタイトルの作品を描き始めた。
「洪水」(1805年)は、ニコラ・プッサンの「洪水」(1660年)を意識したものだが、
ターナーは、洪水の風雨をブラシでさっと一掃きすることで表し、水平線の彼方に火山の
噴火のような赤をアクセントとして加えている。

Le Deluge.JPG

プッサンの「洪水」
     PoussinLeDeluge.JPG

ターナーが、最も影響を受けたのは、古典主義の風景画家クロード・ロランだった。
「ヤコブとラバンとその娘たちがいる風景」(1654年)という聖書(創世記29章)を
題材としたロランの絵の人物を変えて、「Appulica in Search of Applus」(1814年)
とした。上がロラン、下がターナーの絵。
CladeLorrain_Paysage_avecJocob.JPG

 クロード・ロランは風景画家だったので、当時のフランスでは主流ではなかったが、
ロランの画面構成をターナーは学んでいる。

 ターナーの転機は、44歳のときのイタリア旅行だった。
光あふれるイタリア、北国のイギリスと全く違う風景。
ヴェニスを描く第一人者カナレットの「埠頭」The Molo (左)
「カナレットのような絵」Canaletti Painting(1833年) (右)
今までのターナーには、なかった空の青。明るい色彩。

Canaletto.JPG

 この展覧会の特徴は、ターナーが参考にした巨匠たちの絵が並んで展示されている
ことだった。じっと見ていると、「僕だったら、こんなふうに描く、僕の方がいいでしょ」と、
ターナーが言っているような気がした。

 ロココの代表的作家、ヴァトー(ワトー)の「2人のいとこ」(1716年)(下左)をターナー
は、技法を学んで、もっとロココっぽく優雅に変えた(下右)。タイトルは「As you like it」
(1822年)、シェークスピアの戯曲「お気に召すまま」からとった。
Watteau.JPG 

 巨匠中の巨匠、レンブラントの光の使い方も、ターナーは学んだ。
左:レンブラント「風車」(1645年)
右:ターナー「Four à chaux à Coalbrookdale」(1797年)
Rembrandt1.JPG commeRembrandt.JPG

 若いときから、名誉を得て、同時代にライバルがいないターナーは、過去の巨匠たち
と競い、ヒントを得、風景画で光や空気をどのように表現したらいいのか、模索していた。

 「カレーの砂浜」(1830年)
この展覧会の図録の表紙や広告に使われている絵。
印象派という名前の由来となったモネの「日の出・印象」に影響を与えているのでは、
と思える作品。明るい色彩で、潮干狩りをする人物の描き方がすっきりとしていて、
私は好きな絵。
LaPlage_deCalais.JPG



 「雪の嵐」(1842年)
この辺りから、私が今まで知っていたターナーの絵、ぼわっとした絵というイメージに近
くなってくる。嵐や難破船は、ターナーが好んでとりあげた主題である。
父の死で、ゆううつ症だった当時のターナーは、難破船に自分の気持ちをだぶらせて
いた。
Tempete de neige.JPG

 「川と遠くの湾の風景」(1845年)
物の形が色彩の渦に溶け込んでいる。晩年の作品。

Paysage.JPG


 ターナーという画家の「人となり」を作品の変遷を実際に見ながら考えていく、
という意味で、とても興味深い展覧会だった。ターナーと同時代の風景画家の
作品も展示されていた。とても中味の濃い充実した展覧会だった。

 ☆各絵のタイトルは、私が訳したものなので、正式なものではありません。


フューチャリズム(未来派) [☆彡Paris  展覧会]

 ピザの店、ボルゲーゼ美術館展とイタリアづいている私の記事。
イタリア続きで、今回は、パリのポンピドーセンター(近代美術館)で、2008年末に見た展覧会、
20世紀初頭のイタリアの芸術運動「フューチャリズム(未来派)」をご紹介。
 「フューチャリズム」は、1909年にイタリアの詩人マリネッティが、「ル・フィガロ」紙に、
「フューチャリズム宣言」を出したことから、その名がついた。
フューチャリズムFuturismeは過去を断ち切り、テクノロジー(技術)に裏打ちされた
新しい世界の伝説を作ろうとするものだったが、短命に終わった。
しかし、フューチャリズムは、アヴァンギャルド(前衛芸術)の元となった。

1、ジャコモ・バルラ(Giacomo Balla)
「バルコニーを走る若い女」1912年
FuBalla.JPG

 連続写真のように、ひとつの画面の中に瞬間的画像を複合させることで、
動きを表現しようとした。
「すべてのものは、近づいて来ては通り過ぎる。動かないものはない。」
今ではアニメーション技法として当たり前のことだが、当時は革新的であった。

2、 ジーノ・セヴェリーニ(Gino Severini)
「忘れられないダンサーたち」 1911年
色弱テストみたいな。。でしょ?
点描からキュビズムへの移行が見て取れる。

FuSeverini.JPG

3、ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo)
「La Rivolta」(革命) 1911年
Russolo.JPG

直線を使った絵を描いていたルッソロは、「騒音芸術」というミュージックアートを創造し、
音楽での「フューチャリズム」に貢献した。

 以上のような絵のイタリアの「フューチャリズム」展が、1912年にパリで開かれ、
大いに話題になったことから、パリのキュビズム画家、ドローネーやメッツィンガーは、
影響を受け、下の絵のように、動きのある明るい色彩の作品を発表した。
ピカソ、ブラック、ファン・グリスらの正統派キュビズムは、形に重点を置いていたため、
静止的で、色は暗かったのである。
   
4、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)  
「La Dryade」 (ドリュアデ=ギリシア神話の木の精 ) 1908年

picasso.jpg

5、ロバート・ドローネー(Robert Delaunay)
「パリの街」 1912年
左右に、遠景に、当時のパリの建物が見える。横4mの大きな絵。

FuDelauney.JPG

5、ジャン・メッツィンガー(Jean Metzinger)メッツァンジェとも表記
「競輪選手」 1912年
これも遠景に競技場の観客席が見える。楽しい絵。
未来派は、機械や動きに関心があったので、自転車はよい題材だった。

FuMtzinger.JPG 


 マルセル・デュシャンらのキュビストたちは、「セクションドール」(黄金分割)という
グループを立ち上げた。色彩豊かでダイナミックなフューチャリストの主張をキュビズム的、
幾何学的に構成した作品を発表した。

6、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)
「Nu descendant l'escalier」(階段を下りる裸の人) 1912年
階段を下りる動きが、フューチャリズムの連続写真の影響を受けている。

Duchamp Nu descendant i'escalier.jpg   

未来派+キュビズム運動はロシアにも広がった。

7、カシミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevitch)
「Portret Ivana Kluna」 (Ivana Klunaの肖像) 1911年
 一見すると機械のようだが人の顔。目がじっとこちらを見据えている。

      FuMalevitch.JPG

イギリスにも、「フューチャリズム」は伝わり、Percy Wyndham Lewisがリーダーであった。

詩人アポリネールは、特に色彩豊かなキュビストたちを、ギリシア神話の竪琴の名手「オルフェウス」
にたとえ「オルフィスム」ORPHISMとよんだ。代表格は、ソニア・ドローネーである。

8、ソニア・ドローネー(Sonia Delaunay)
「電気的なプリズム」 1914年
5、ロバート・ドローネーの妻。色彩を重視し、抽象画の元となった。 

SoniaDelauneyS.JPG

活発だったフューチャリズムやキュビズムだが、1914年の第一次世界大戦の勃発で
活動は、終わりを遂げた。

 ★この展覧会は、パリの後、ローマの美術館、イギリスのテート美術館と巡回した。
フューチャリズム宣言が出されてちょうど100年。改めて、フューチャリズムの
及ぼした影響を考えると共に、今、私たちが未来をどう考えるかが、問いかけられている。


前の6件 | 次の6件 ☆彡Paris  展覧会 ブログトップ