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PARIS-BRUXELLES BRUXELLS-PARIS展 [☆彡Paris  展覧会]

コロナ・ウィルスで外出禁止の日々、以前、行った展覧会の図録を見たりしています。
その中で、面白かったものをとりあげてみました。
1997年、パリ、グランパレでの展覧会「パリーブリュッセル、ブリュッセルーパリ」

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図録の表紙は、George Lemmen "La plage à Heist-1891" の部分。
George Lemmen(1865~1916)は、新印象派の画家で、ベルギーで生まれ育ち活動した。

ベルギーは1830年に独立を宣言。
産業革命がヨーロッパで一番早く起こったため、経済的に繁栄をし、ここで取り上げる
1848年から1914年は、芸術にすぐれたものが多く登場した時期である。
フランスでも、1848年の2月革命を経てナポレオン3世が即位、政治的に安定をし、
1867年には日本も参加した万博が開催され、芸術的活動が活発に行われた。

パリにはオペラ座、ブリュッセルには劇場が出来、列車で往来する人もふえた。
1897年には、ブリュッセルで万博が開催された。「ベルエポック」の時代である。
これは双方が繁栄していた
パリとブリュッセルの文化的結びつきを見せる展覧会である。

当時の優雅で美しい女性を描いた大きな絵2枚。マネの「バルコニー」1868年
下は、ジェームス・ティソ「LL嬢の肖像」1864年(展覧会図録の裏表紙)

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(1)リアリスム(写実)絵画から印象派へ

当時、人気があったのは、市民の生活を描いた絵だった。ブルジョワ階級だけでなく、
普通の市民を描いたものが登場した。
この展覧会ならではの展示方法は、ブリュッセル画家(Bruxelles)とパリ画家(Paris)
の同じシーンでの作品を並べ比較していることだ。


庶民の暮らしの絵
Bruxelles
(左)Henri Braekeleer 「窓辺にて」または「アントワープの教会」1872年
Braekeleerは、アントワープで生涯を送った人気の画家だった。フェルメールの影響
をうけ、部屋に人物がひとり、窓辺という絵が多い。

Paris
(右)ギュスターヴ・クールベ「プルードンと子供たち、1853年」1865年
クールベは、社会主義思想家のプルードンを崇拝し、肖像画を描きたかったのだが、
プルードンはモデルになるのを嫌がった。1965年、彼が亡くなった年に、クールベは
「記念碑として肖像画を描きたいので」とジャーナリストに手紙を書き、撮った写真を
使わせてもらい、これを描いた。

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ブルジョワの暮らしの絵
Paris
(左)アルフレッド・ステヴァンス「ピンクの服の女性」1866年
ステヴァンスは、ブリュッセルで育ち、パリで学んだ。優美なドレスの女性の絵を描き人気があった。
ジャポニズムに影響され、中国のものも好きだったので、大きい絵で見ると、戸棚は中国製、
花瓶も中国製、女性が手に持っているのは、ひな人形とわかる。
Bruxelles
(右)ジェームズ・アンソール「牡蠣を食べる人」1882年
アンソールは、ベルギーのオステンドに生まれ、ブリュッセルの王立美術学校に通った3年
以外はずっとオステンドで暮らした。これは22才の時の作品で、オステンドのブルジョワ
階級の人の日常を鮮やかな色彩で描いている。

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屋外での絵
Paris
(左)マネ「ラテュイユ親父の店」1879年 サロン入選作品
描かれた3人の表情からセリフが聞こえそう。
Bruxelles
(右)エミール・クラウス 「そり遊びをする子供たち」1891年
エミール・クラウスは、ベルギーの印象派、新印象派の中心的存在。アントワープの
王立美術学校で学ぶ。パリでも活動をし、多くの画家と交流した。
2013年に日本で展覧会が開催され、この絵も展示されていた。

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海での絵
Bruxelles
(左)テオ・フォン・レイセルベルへ「自分のヨットでのシニャック」1896年
レイセルベルへはベルギー第3の都市ゲントで生まれ、ブリュッセルの王立美術学校で
学ぶ。パリの印象派展に出品されたスーラの「グランドジャット島、、」を見て、ベルギーに
点描を導入。スーラとの親交を深め、パリに移住した。

Paris
(右)ジョルジュ・スーラ「ポール=アン=ベッサンの外港 満潮」1888年
新印象派の創始者スーラは、この絵を描いた3年後に31才で亡くなった。青地に濃紺の額縁も
スーラが作ったものである。

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点描
この時代のブリュッセル、パリ、両者の絵画での大きな出来事は、点描の出現だったので、
31歳で亡くなったスーラの後継者シニャックを取り上げていた。
横4m縦3mの大きな絵が現れる。
(左)ポール・シニャック「調和の時代」1893年~95年 
シニャックはスーラから大きな影響をうけたが、スーラ亡き後は、明るい色の点描になった。
海とヨットを愛し、サントロペに居を構え、海辺の景色を多く描いた。

(右)ポール・シニャック「日傘の婦人」1893年
シニャックが色彩に対して卓越した才能を持っていることがわかる作品。
モデルは妻。ピサロのまた従妹である。この絵は、オルセー美術館所蔵で、チケットに
使われていたことがある。

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(2) 象徴主義
この時代のブリュッセル、パリ、両者の絵画での大きなもう一つの出来事は、象徴主義
で、
神秘的なテーマを扱った凝った絵や幻想的なものが、ブリュッセルから広がって行った。
代表格は、フェルナン・クノップフである。(2018年末、パリでのクノップフ展の記事あり)

(左)フェルナン・クノップフ「見捨てられた町」1904年
中世に繁栄した都市ブルージュをセピア色で描いている。
(右)オディロン・ルドン「キリスト」1880年
ルドンはパリで活動。
50才までほとんど色彩を使わない表現だった。モノクローム
で象徴主義文学から精神的な想像力を広げた作品に特徴がある。

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(左)ポール・ゴーギャン「ミステリアスであれ」1890年 菩提樹の木彫、多色塗り
ゴーギャンのタヒチの家の壁をかざっていた5枚のパネルのうちの1枚。
図案化された顔と泳ぐ人の背中、その間にあるアール・ヌーヴォー的曲線で表された波、海草が
混然としている。
(右)ジェームス・アンソール「悲しみの人」L'homme de douleur 1891年
悲しみの人=A man of sorrow は、磔刑のキリストのことである。15世紀の画家
Albrecht Boutsの同じタイトルの絵に倣って描かれた。
アンソールは、初期は印象派っぽい作品を描いていたが、(上に絵あり)1880年代半ばから
仮面や骸骨が登場する絵を描き始めた。

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★★

この展覧会は、1843年から1914年のパリとブリュッセルに焦点を当ててるので、
その時代の絵画だけでなく、彫刻、家具も展示され、建築は写真、模型の展示だった。
(3)彫刻
ロダンは、パリで生まれ、彫刻家を志し、美術学校を受験するが3回失敗。
室内装飾の職人として働き、ブリュッセルの建築現場へ仕事に行き6年間暮らした。
その間に、イタリア旅行をし、ミケランジェロの彫刻に衝撃を受け、「青銅時代」を
作成し、彫刻家として評価を得た。生身そっくりの彫刻と評判だったので、モデルが
ポーズをとっている写真も展示されていた。
(左)青銅時代 1875年   (右)ダイアナDiane 1875年 大理石で優美。
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(4)アール・ヌーヴォー
工芸の分野では、アール・ヌーヴォーが生まれた。
特に2回のパリ万博に出品されたガレの作品をきっかけとして、ガラス工芸が花開いた。
(左)エミール・ガレ "Flambe d'eau 1900年" 水のフランベ 1900年のパリ万博出展作品。
(右)ドーム兄弟 "Le Deuil violet des colchiques" イヌサフラン模様、紫の死別の悲しみ 1893年
ドーム兄弟は父がガラス工場を経営していた。ガレの成功を目にして、兄弟2人は、
これまでのガラス製品と違う芸術性が高く、わかりやすいものを作り大人気となった。


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アール・ヌーヴォー様式は、インテリアにも取り入れられた。
(左)アレクサンドル・シャルパンティエ「音楽用 譜面台」1901年
弾力性にすぐれたハンガリーのトネリコの木が使われている。
オルセー美術館には、アレクサンドル・シャルパンティエの内装による
アール・ヌーヴォー様式の部屋も展示されている。
(右)アルフォンス・ミュシャ La Nature 1900年 ブロンズ(青銅)に銅と金。
照明で金も銀もピカピカ光り、すばらしい。ここにだけ、人だかりができていた。
これは正面の写真だが、顔は横から見た方が美しいと思った。
ミュシャはチェコで生まれ、パリで女優サラ・ベルナールの芝居のポスターを制作、大人気となった。

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(左)エクトル・ギマール 扉の取っ手 1897年 鉄と真鍮で鋳造
ギマールはパリのメトロの門のデザインで有名。鋳鉄で曲線を描くなど、自由自在な
形を作った。
(中)アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド 椅子 1898年 padoukの木
ヴァン・ド・ヴェルドはベルギー生まれ。アール・ヌーヴォーの特徴でもある曲線を
使った椅子は、自邸のために作られたが、ドイツ、ベルギー、フランスのデザイナー
たちに手直しされ広まった。

 ヴァン・ド・ヴェルドに関しては、yk2さんの「オルセー美術館のアール・ヌーヴォーに詳しく書かれています。
(右)ロートレック 「Divan Japonaise」1892年

Divan Japonaise(ディヴァン・ジャポネーズ)という名前の店のポスター。
ロートレックはパリで活躍した画家だが、ポスターも手掛け、この作品をはじめとして名作が多い。


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この展覧会が開催された1997年は、まだパソコンでインターネット接続に時間がかかり、
プロバイダーの課金が高い時代だった。
美術知識も少なかった頃だが、企画展の面白さに気づいたのがこの展覧会である。以来、
パリに行く日程が決まると、グランパレ、プティパレ、オルセーなどの企画展をチェック
する楽しみができ、私にとっては、思い出深い展覧会である。

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