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「奇想の系譜」展 [展覧会(日本の絵)]

東京都美術館で、江戸絵画「奇想の系譜」展を見た。

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奇想の系譜 江戸絵画ミラクルワールド」、そこに列挙されている画家たちは、
岩佐又兵衛狩野山雪伊藤若冲曽我蕭白長沢芦雪歌川国芳白隠慧鶴鈴木其一
私の好きな其一、
若冲、芦雪に「奇想」という言葉はしっくりこない気がしたが、
内容が魅力的だったので行った。前期と後期に分かれているが、前期は見たことの
あるものが
多かったので、後期に出かけた。

それぞれの画家に部屋が割り当てられる展示だった。
まずは一番人気の
1、伊藤若冲(1716-1800)
最近、人気が高い若冲。展覧会も、時々あるので、見たことがある作品が多かった。

米国・エツコ&ジョー・プライスコレクションのもので、「紫陽花双鶏図」 
「旭日雄鶏図」、「虎図」、「葡萄図」
MIHO MUSEUM所蔵の、「象と鯨図屏風」
とはいえ、絵に再会すると、ますます親しみが増す感じがする。

最近 発見されたという初期の作品「梔子雄鶏図」 個人蔵 
若い頃、30代の作品と推定されている。
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2、曽我蕭白(1730-1781)
「雪山童子図」  三重・継松寺
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雪山童子は、幼い釈迦。修行している時、鬼が唱える経の前半を聞き、鬼に喰われれば
後半を教わることが出来るというので、身を投げ出そうとしているところ。
赤、白、青の画面が美しい。近くで見ると、雪山童子の周りに雪が降っているとわかる。
蕭白の絵は、おどろおどろしさを感じることが多いのだが、この童子はかわいい。


「群仙図屏風」 文化庁 重要文化財        右隻

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芸大所蔵の水墨による「群仙図」もあったが、薄墨なので、これよりずっと穏やかにみえた。


3、長沢芦雪(1754-1799)
群猿図襖絵 兵庫・大乗寺 重要文化財 
猿たちの仕草や表情がそれぞれ違っていて、面白い。
蘆雪は、応挙の弟子。大乗寺の住職が若い頃の応挙を支援したお礼に、応挙は
弟子たちを率いて大乗寺に行き、襖絵や屏風絵を描いた。
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「白象黒牛図屏風」 米国・エツコ&ジョー・プライスコレクション
右隻

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左隻

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白い象と黒い牛。黒と白の対比。
象の背中にカラスがとまり、牛の足元には、白い仔犬がいる。これも黒と白の対比。



4、岩佐又兵衛(1578-1650)
岩佐又兵衛は織田信長に仕えた戦国武将の荒木村重の子である。
「山中常盤物語絵巻」 MOA美術館 重要文化財
牛若丸(後の源義経)の母、常盤御前が牛若丸を追って奥州に向かう途中、盗賊たちに
殺されたので、牛若丸が仇を討つという話。全12巻中、5巻が展示されていた。
胸に刀を突きつけられ、血を流して横たわる御前の姿を生々しく表現していた。
絵巻なので、順に見て行くことになる。
上方に拡大図が示され説明がついていたので、わかりやすかった。

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「官女観菊図」 山種美術館 重要文化財
官女たちが牛車の御簾をあげて、道端に咲いている菊を眺めている。

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5、狩野山雪(1590-1651)

「龍虎図屏風」 個人蔵

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6、白隠慧鶴(1685-1768)
白隠慧鶴は臨済宗の僧。数多くの書画を描いた。

「達磨図」 大分・萬壽寺
80才過ぎに描いた最晩年の絵。目をぎょろりと見開く達磨。赤い僧衣に黒の背景と線が
即興的な絵全体を引き締めている。


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これは、着色の絵だが、作品は、墨絵の方が多かった。


7、鈴木其一(1796-1858)
「百鳥百獣図」 キャサリン&トーマス・エドソンコレクション
これが、この展覧会で一番見たかった作品。初の里帰り展示。

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びっしりと描きこまれた動物と鳥。若冲の作風を思い出すが、其一の個性が光る。
百獣図では、前景の白い象が目だっている。
桐の木には鳳凰が止まっている。


8、歌川国芳(1797-1861)

「宮本武蔵の鯨退治」 弘化4年(1847)頃

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黒と白の対照が明快。鯨の背にのる武蔵の姿はかなり小さい。
盛り上がる波の構図は葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を参考にしているのだろうか。


個性的な画家たち8人の力作が揃い、見応えがあった。
*会期は7日(日)まで。

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河鍋暁斎・その手に描けぬものなし展 [展覧会(日本の絵)]

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サントリー美術館で開催中の「河鍋暁斎」展に行った。
サブタイトルは、「その手に描けぬものなし」。その通り、暁斎の絵の範囲の広さに感心した。

河鍋暁斎(1831~1889)は、天保年間から明治にかけての絵師で、はじめ歌川国芳に弟子入りし、
その後狩野派に学び、さらにさまざまな画法を手掛け、多彩な画業の人である。三菱一号館を
設計したコンドルは、暁斎に弟子入りし、画号をもらうほどであった。


サントリー美術館の展示方法は、見やすく、照明も上手だと思う。
入ってすぐが、「代表作」の展示であった。
一番目は、「枯木寒鴉図」 1881年 栄太楼蔵 
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水墨画、一気に描かれた枝に鴉が一羽。静けさに目を奪われる。
1881年、上野で開催された第2回内国勧業博覧会に出品され、絵画部門での
最高賞を受賞した作品。
戯画で有名だった暁斎だが、狩野派で学んだ実力を活かした正統的な絵画作品。
暁斎は本作に百円という破格の高値を付けたので、鴉一羽にしては高すぎると言われた
が、「これは鴉の値段でなく、長年の苦学の値である」と答えた。それを意気に感じた
日本橋・栄太楼(梅干し飴)の主人が言い値で買ったため、さらに評判になった。


二番目の展示は、「花鳥図」 1881年
水墨画の次は、眼に鮮やかな花鳥図だが、よく見ると雉に蛇がからみついている!
この後、どうなるのか?さらにそれを木の上の鷹が狙っている。美しさと毒気の絵。
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三番目の絵は、「観世音菩薩像」1888年
柳の枝を挿した水瓶を傍らに置き岩の上にすわる観音像は「楊柳観音」。
左下にいるのは善財童子で、仏教に目覚め、善人の教えを受けて歩いているが、
観音様の姿を見て感激、合掌している場面である。
緻密に描きこまれた観音様の顔、衣装、透けるベール、胡粉をまき散らした波の水しぶき
などに高い技術力が現れている。
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暁斎が、狩野洞白に弟子入りをした19才の頃、修業時代の絵。
「毘沙門天像」1848年
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暁斎は狩野洞白の元では極めて優秀な門人だった。
狩野派の得意とするモチーフが龍と虎の図。
「虎図」
元々は、衝立であったが、虫食い箇所があったため、絵となった。
衝立の大きさに収めるため、下半身が不自然にうねっている。
丸まった尻尾が愛らしい。
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幕末から明治への動乱期は、狩野派の絵師としての仕事が少なくなった。
戯画が巧みだった暁斎は、そちらの注文が多くなったが、1870年に政府の役人を
批判する戯画を描いた咎で、牢屋入りとなった。1年後、放免されたのを機に、それまで
の狂斎の字を改め、暁斎(きょうさい)とした。


「蛙の学校」1870年前半
学校教育が始まり、欧米に倣って、大型の地図を壁にかける掛図が教材として使われた。
掛図に見立てた蓮の葉を枝の指棒でさしながら先生が教えると、緑色の生徒が答えている。
「鳥獣戯画」にヒントを得たもの。実に面白い。
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「髑髏と蜥蜴」(風俗鳥獣戯画帖より) 1869~70年
「一度見たら忘れられないインパクトがある」 と説明書きにあったが、その通り。
静かな月夜に地面に置かれた髑髏の眼の間を一匹の蜥蜴が通り抜ける。
胡粉と墨で陰影がつけられた髑髏には、浮かび上がるような立体感があり、
するりと抜ける蜥蜴には生々しさがある。
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「地獄太夫と一休」 
暁斎は、地獄太夫を主題にたくさんの絵を描いている。
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地獄太夫は室町時代の遊女で、山賊にかどわかされて遊女として売られた。
着物には地獄変相図を刺繍していたそうだが、ここでは、七福神や珊瑚、寿の文字が
描かれている。
遊郭を訪れた一休が酒を飲み、鯉を食べるのを訝しく思った太夫が、一旦、外に出て、
部屋を覗いて見ると、三味線を鳴らす芸妓の骸骨の上で一休が踊っていたという図。
艶やかな絵で美しい。

「鯉魚遊泳図」1885年
さまざまな視点から観察した9匹の鯉をひとつの画面に収めている。
円山応挙の「鯉図」に倣った生気あふれる作品。コンドルの旧蔵品だった。
コンドルは、暁斎から、36枚ある鯉の鱗の描き方を学んだ過程をノートに記している。

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「達磨図」 1885年
これもコンドルの旧蔵品。
この絵を見本にコンドルは、暁斎から、頬の毛と胸毛の描き方の違いを習った。
技巧がいる毛を描く細い線と漢画の伝統に則った勢いよく太い衣の線は対照的。
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「貧乏神図」1886年
これもコンドルの旧蔵品。
笠と渋団扇を背負って杖をつく貧乏神。絵から出て来てしまわないよう、結んだ縄の中に
入れられているのが笑える。貧乏の象徴として様々な端切れを使った表装で、ツギまで
あててるのだが、貧相でなく美しい。

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ここに掲載したものは、前期(3月4日まで)の展示。後期は展示替えで約半数が入れ替わる。
図録で見ると、後期の方が見たいものが多いので、行こうと思っている。

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新・北斎展 [展覧会(日本の絵)]

tirashi.jpg「北斎展のチケットもらったから行こう」と誘われて行った。
予備知識がなかったので、「北斎展、しょっちゅうあるわねー」って思ったけれど、今回のは全然違った。

北斎研究の第一人者である「永田生慈」さんのコレクション。
この展覧会の準備中に永田さんは亡くなり、コレクションは遺言で島根県立美術館に寄贈される。
そして島根県のみでの展示となるため今回が最後の東京でのお披露目。

展示作品は、永田コレクションの他にも、太田記念美術館、ギメ美術館、シンシナティ美術館
などからも借りてきているので、全部で約480点(展示替えあり)と大規模だ。
作品はほぼ年代順に展示されていた。

1、春朗時代(20~35才)北斎は19才で勝川春草に入門。師の名前をとって春朗の号を使った。
師に倣い、役者絵や武者絵、芝居絵本の挿絵などを手掛けた。
「四代目岩井半四郎 かしく」
北斎のデビュー作と知って見るせいか、みずみずしさにあふれている気がした。

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役者絵は、「五代目団十郎 かげきよ」「五代目団十郎 松王丸 市川門之助 桜丸」
もあった。今の団十郎、門之助と顔が似てるかしら?とじっくり見た。

両国橋花火の図。両国橋花火見物の図を見ながら、昔はこんなだったのね、と眺めた。
両国の花火は、今は「隅田川の花火大会」とよばれている。
北斎は両国の近く、墨田区に住んでいたので隅田川を描いた作品が多い。

狂言の舞台の絵も数枚あり、かなり緻密に描かれていた。
興味深かったのは、「鎌倉勝景図巻」。鎌倉から江の島への道中を絵巻物にしている。
余白の多い淡々とした画面。「七里ガ浜」はのどかな海岸、「大佛」は背後に山、
木々の中ににゅっと立つ大佛。
知っている場所の昔のようすは面白い。

「鍾馗図」
赤い鍾馗の鬼退治図。強い、強い。勇ましい。
私が北斎に興味を持ったのは、2007年にボストン美術館で見た「江戸の誘惑」展。
鍾馗を描いた旗(のぼり)は赤色が印象的だった。

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浮世絵は光による退色があるので、展示期間は短くなっている。
ここにあげた2つは、1月28日までの展示だった。

2、宗理時代(36~46才)
勝川派を離れ、琳派の「俵屋宗理」を襲名。大判錦絵や絵本の挿絵という新たな
分野に取り組む。
この時期の代表作は、「風流なくて七くせ 遠眼鏡」(リー・ダークスコレクション)
(2月18日までの展示)
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私が行ったときは、展示されていなかったのだが、私はこれを同じ日、高島屋の
「浮世絵 最強列伝」(1/9~1-21)で見た。高島屋での展示終了後、こちらに
展示される。実物は発色が鮮やかですばらしい。

ベルギー王立美術館所蔵の「上野」「亀戸開帳」は色が美しい。
昔の東京「よつや十二そう」は新宿の十二社のことかしら?などど思いながら見た。
「衝立と屠蘇図」、題名の通り、衝立の前にお盆にのったお屠蘇。
「阿蘭陀画鏡 江戸八景」は、西洋絵画の遠近法、銅版画の細密な技法の影響を受けた作品。

「夜鷹図」柳の下で客をひく遊女の後ろ姿。うっすらと月が浮かび、蝙蝠が舞う。
柳の葉の繊細さ、いつ客を待つ遊女の心も繊細なのだろう。細い筆使いが美しい。
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「行楽帰り図」は、千鳥足の酔っ払い男2人の楽しそうなこと。見ている方も笑ってしまう。

「津和野藩伝来摺物」の抜粋。楊貴妃、小野小町、蓮華女
津和野藩主亀井家伝来の作品。長らく秘蔵だったので状態が良く美しい。

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3、北斎時代(46~50才) 読本挿絵へ傾注

東海道五十三次(吉野屋版)「日本橋・箱根・興津・府中・浜松・宮・桑名・京)
知っている所ばかりで興味深く見る。箱根といえば富士山。興津は海、浜松は海に松。

広重より前に、北斎は、東海道五十三次を描いてる。

「円窓の美人図 」(シンシナティ美術館)
遠くからみても目立って美しい。

髪の毛1本1本まで丹念に描かれた絵。半襟の模様がきれい。
きれい!と思って見ると、外国の美術館蔵というケースが多い。

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「かな手本忠臣蔵」シンシナティ美術館)
北斎の母は吉良家の家臣であったので、北斎は忠臣蔵を描かなかったと言われて

いるが、実際には描いていた。
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「蛸図」「海老図」「布袋図」は、そのままの確かな描写だがどこかユーモラス。


4、戴斗時代(51~60才)北斎漫画の誕生
門人を多く抱えるようになったので、絵手本として「北斎漫画」を制作した。
漫画は小さいと見えにくいので、図は省略する。
「なまこ図」「生首図」そのものずばり、だった。


5、為一時代(61~74才)北斎を象徴する時代
有名な富岳三十六景、諸国名橋奇覧、諸国瀧廻りが制作された時代。
風景画だけでなく、花鳥画、古典画、武者絵なども
制作した。

「富岳三十六景 神奈川沖波裏」
異なる摺りのものが5枚の作品で示されていた。
ここではっきり見える茶色の舟が、色が薄く見えにくくなっているものもあった。
こういう比較ができるのは興味深かった。

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「富岳三十六景 凱風快晴」

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以上の2つは、同日、高島屋の「浮世絵最強列伝」にもあった。
同じものがあるのは、摺りものならではのこと。


6、画狂老人卍時代(75~90才) さらなる画技への希求
「向日葵図」(シンシナティ美術館)
88才の作品。竹竿で向日葵の高さを示している。
葉の色には、はっきり濃淡があるなど細かい描写。

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同じく最晩年の作品「赤壁の曹操図」
曹操が船の上で一人、槍を持ち立っている。劉備、孫権との戦いに向けての決意だろうか。


最後の作品は「弘法大師修法図」(西新井大師)
弘法大師が祈りで、疫病神の鬼と戦っているところ。
犬は苔のはえた古木に巻き付き吠え続けている。黒い背景の中で3者だけが浮かびあがる。
恐ろしいほどの力作。結末は祈りが勝った。

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永田氏がパリのギメ美術館で浮世絵調査をしていた時、見せられたのは、「雲龍図」、
落款は「九十老人卍」。まさに北斎作品。しかもその表装と大きさは、永田氏が
副館長をしている「太田記念美術館」にある「雨中虎図」と同じ。

あまりの衝撃に息をのんだと永田氏は語っていた。つまり2つの作品は一対。
2つを並べると、両者は向き合い、天の龍と地の虎になる。これを見たかったのだが、
まだ展示期間ではなかった。今日1月30日から3月4日までの展示なので行きたい。


※今まで、いくつか「北斎展」は見たが、このように画業全体を見る展覧会は初めてだった。
しかも永田氏の秘蔵のコレクションを東京で見る最後の機会。
新・北斎展、HOKUSAI UPDATED
のタイトル通りだった。

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「扇の国、日本」展 [展覧会(日本の絵)]

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サントリー美術館で開催中(20日まで)の「扇の国、日本」展に行った。
チラシの横に、「せんすがいいね」と書いてあるのに、ほほえんでしまう。


扇子は最近では、使われる機会が減っているが、私たちの生活に馴染んでいる。
扇は日本の発明品なので、1878年にパリで開催された万国博覧会で100本展示された。
これは、パリでジャポニズムが流行する一端になったようだ。モネが妻に打掛を着せ
扇を持たせた「ラ・ジャポネーズ」という作品もある。


入ってすぐに見えた扇3つ。
英一蝶の「松に白鷺図扇面」、金色の扇子に白鷺が大きく舞う。優雅で美しい。
谷文晁は「雛に蛤図扇面」、歌川国芳は「九紋龍史進図扇面」
これだけで、すごい!と思ってしまう。


扇の歴史は古く、中国の文献に「日本扇」という言葉が見られ、平安時代の
檜扇も発掘されているが、最初に展示されていたのは、国宝、熊野大社の「採色檜扇」
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檜扇は、檜の薄皮を綴って作ったもの。宮中の行事に公家たちが出席するときの
正装用に使われた。これは室町幕府3代将軍の足利義満の奉納品。今でも檜扇は
能の舞台で使われている。熱田神宮のものも展示されていた。
扇は、あおいで風を起こすものでなく、儀式用であった。


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これは毛利家の陣扇。
扇には超人的な力が宿ると考えられていたので、武将たちは扇によって勝ちを
引き寄せることができると信じて使った。


儀式用でなく、庶民に使われたのは竹骨に紙を張り付けた紙扇である。
「扇流し」という扇を水に投げて、そのようすを楽しむ遊びもあり、それが、
「遊楽図屏風」に描かれている。細かい写実の絵。女性たちの所作が優雅。
「あーら、おほほ」と扇子流しに興じているに違いない。

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襖に扇が描かれているのは、「扇面流図」(狩野杢之助画、名古屋城蔵 重文)
名古屋城の湯殿の襖絵。波の上にひらひら舞い散る扇。風を感じる軽やかさが
湯殿にふさわしい。(チラシの下部の写真)

「浜松に扇面図屏風」、金屏風に松の緑が映える六面の立派な屏風。(個人蔵)
扇の数は80本。全開の扇、半開きのもの、それぞれ、いろいろな方向を向いて、
散らされた配置にデザイン性を感じる。
「舞踊図」はサントリーの所蔵品。6枚揃いだが、前半に3枚、後半に3枚と
交代で展示。(チラシの上部の写真)

扇面貼交屏風」宗達画 六曲一双(個人蔵)
扇の人気と共に既製品が作られるようになり、扇絵のコレクションも行われ、
扇絵を貼った屏風も登場した。金屏風に様々な色の扇絵は実に華やか。

源氏物語、平家物語など、文芸作品に題材をとった歌(書)と絵の扇を複数枚
貼った屏風もあった。
「源氏物語絵扇面散屏風」六曲一双のうちの左隻 室町時代(広島・浄土寺蔵) 
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扇の図柄、形は、陶芸や工芸の世界にも広まった。
「織部扇面形蓋物」桃山時代(梅沢記念館蔵)
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刀の鍔(つば)にも扇の模様が使われている。
「桜に破扇図鍔」伝林 又七 江戸時代 (永青文庫蔵)重文
舞い散る桜と壊れた扇は、はかなさを表しているかのようだ。象嵌(ぞうがん)の
金が美しい。

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七宝でできた草花模様の扇型の「釘隠」もあった。(東京国立博物館蔵)

江戸時代は、浮世絵の中にも扇が登場。
「高麗煎餅見世先」鳥居清満・鳥居清経(千葉市美術館蔵)
歌舞伎役者の二代目市川高麗蔵が、ひいきの客に頼まれて扇にサインしている浮世絵。

「見立那須与一 屋島の合戦」鈴木春信画 (個人蔵)
見立なので、弓を持つ青年の後ろに畑、茄子が植えられているので、那須与一とわかる
しかけ。

扇絵には、中村芳中の扇面いっぱいに描かれた「立葵図」、与謝野蕪村に池大雅、
呉春の「養老図」(太田記念美術館)抱一の「月図」北斎、暁斉と巨匠の作品が
ずらっと並び、見ごたえがあった。
最後は、シーボルトの「NIPPON」から出島図。出島は扇型だったと気づく。
うまいなぁと感心した。
とても良い展覧会で見ごたえがあったが、会期は、20日(日)まで。
ご都合のつくかたは、ぜひ!






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「北斎の橋 すみだの橋」展 [展覧会(日本の絵)]

すみだ北斎美術館へ「北斎の橋 すみだの橋」展を見に行った。
場所は両国、駅をはさんで相撲の国技館と江戸東京博物館とがある。


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まずは、橋の形に注目して描いた「諸国名橋奇覧」の中からの作品。
どれも見応えがあって面白い。
「かめゐど天神たいこばし」天保5年(1834年)
亀戸天神に今でもある「たいこばし」。この情景がモネの庭の太鼓橋のヒントになった
と言われている。亀戸天神は藤の花の名所でもあるが、ここには描かれていない。
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「三河のハツ橋の古図」
在原業平の「伊勢物語」に出てくる八ッ橋は、北斎以前に尾形光琳によって「八ッ橋図屏風」
(1711年)としてカキツバタの花と共に描かれ有名。
北斎は、花よりも橋の形に着目して人物も共に描いている。
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「飛越の堺つりはし」
飛騨と越中の境のどこの場所かわからないが、深い谷。
足をふみはずした時のために、下に縄がめぐらしてあるといっても、、怖い。
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「摂州阿治川口天保山」
大阪、サントリーミュージアムがあった天保山。
天保山は、しゅんせつ工事で出た淀川の土砂を積み上げて作った山。
桜の季節の山が中心の絵だが、橋も書きこまれている。

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「すほうの国きんたいばし」
山口県の錦帯橋。5連の木造アーチ橋。今もこの形で残る。
対岸に岩国城があり、雨の中を人がわたっているが、後刷りになると雨がなくなっている場合もある。
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約200年前に描かれたものだが、現在でも同じような姿の景色を見られるので興味深い。


北斎は、90才まで生きたので作品が多い。90年の生涯で90回引っ越しをしたと言われているが、
そのほとんどを「すみだ」で過ごしたので、墨田区に北斎美術館が誕生した。

すみだと言えば、「隅田川」。隅田川にはたくさんの大きな橋がかかっている。中でも有名なのは、
花火で有名な両国橋。
1659年に江戸幕府が架橋。武蔵野国と下総の国を結んだので両国橋と名がついた。
橋のたもとの広小路には、見世が立ち並び、夕涼みや花火で江戸有数の盛り場だった。

歌川国芳「安政乙卯十一月二十三日 両国橋渡初之図」
橋が完成した時の渡り初め。三代の夫婦が先頭に立って渡るようす。

隣にあった二代広重の版画は、同じく渡り初めだが、二組の夫婦だけが描かれ、
橋の上に人4人だけというさっぱりしたものだった。
北斎だけでなく、国芳や三代広重など、他の画家の浮世絵も4分の1くらいあった。

国芳 両国橋渡之図1.jpg


明治時代になって建てられた鉄の橋は、関東大震災でも崩れなかったが、現在の橋は
昭和7年竣工のもの。昔の橋の門柱の上の洋風の飾りや橋名板のレプリカが展示されていた。

両国から近い東京スカイツリー、この展望台から見ると、眼下に隅田川が大きく蛇行して
流れ、違う形の橋がほぼ一定間隔でかけられているのが美しかった。

それぞれの橋がいつどのような経緯で作られたのかが、写真入りで説明してある部屋が
東京で生まれ育った私には身近で面白かった。ここは父が生まれた場所、叔父は少し
離れたこっちだったのね、というように古地図で眺めることができた。

川の支流や堀が暗渠化し、今ではなくなってしまった橋がいくつも紹介されていて、
奥深く、興味をそそる。
ショップで「江戸・東京 橋ものがたり」という本を買った。


11月4日まで開催中。


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生誕140年 吉田博展 [展覧会(日本の絵)]

損保ジャパンビルに仕事で行った友達が、展覧会のポスターが貼ってあるのを見て、
同行の部下に「この展覧会、いいらしいよ」と言ったら、「いい帆船ですね。吉田博って、
この間僕らが会った画家のSさんの友達ですか?」「え~っ、生誕140年って書いてある
だろ」「そんな古いんですか。そういう感じしませんね」
そう、古さを感じさせない版画家、吉田博。名前も画家風でなくふつう。


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吉田の作品を気に入っていたダイアナ妃は日本に来た時に自分のカードで購入し、
執務室の壁に版画2枚を飾っていた。その写真を見て、私は「吉田博」の名前を知った。
こういった版画は、「新版画」というジャンルで、明治30年以降のものである。
絵師、彫師、摺師による分業は、浮世絵版画と同じだが、題材が美人画でなく、日常風景や
景色で、浮世絵の倍以上の版木を使用しているので多色表現ができる。


2014年に横浜美術館で、「ニッポンの木版画」という展覧会があり、その時、いろいろな
木版画を見て、素朴でノスタルジックな中にデザイン性があるので好きになった。
中でも、川瀬巴水の昔の東京の風景シリーズが気に入り、横浜高島屋での「川瀬巴水展」
を見に行き感動した。初めて吉田博の版画を見た時、川瀬巴水に似ていると思った。


忙しかったので、何も調べず、予備知識もないまま出かけた展覧会だったが、第一室から驚く。

第1章 不同舎の時代 1894-1899

小さい時から、実に絵が上手い。
福岡・旧久留米藩士の次男として生まれた博だったが、絵の才能を買われ、洋画家吉田嘉三郎
の養子になる。さらに、京都での修業を経て、博は東京の小山正太郎の画塾・不同舎に入門し、
水彩画を学んだ。水彩画は当時、来日した英国人画家によって紹介され、風景画が人気だった。

赤い花のある庭の絵「花のある風景」は赤、ピンク、緑の花に光の影が差し込み印象派風。
「冬木立」では浅井忠の秋のグレの景色が浮かんだ。

不同舎での学びは、水彩画の後に油彩に取り組むという段階になっていた。
上野公園の旧博覧会場で開催された「明治美術会10周年記念展覧会」に出品した油絵作品
「雲叡深秋」。縦111㎝の大きな絵。この絵がデトロイトの美術コレクター、フリーア氏の目に
とまり、アメリカ行きをすすめられたらしい。
雲叡深秋.jpg


第2章 外遊の時代 1900-1906

不同舎で学んでいる頃、養父が急死をしたため、博は一家を養う立場になる。
横浜にあった外国人相手の美術展で水彩画がよく売れたことから、博は借金をして
片道切符を買い、不同舎の後輩、中川八郎と共に渡米、船でサンフランシスコに上陸し、
デトロイトに向かった。
デトロイト美術館で館長に見せた作品が絶賛され、展覧会が開催された。展覧会は好評で
絵は40枚売れ、1000ドル以上(当時の小学校の教員13年分の給与)が手に入った。
大金を手にしたので、ボストンに行き、そこで開いた展覧会も成功。二人はヨーロッパへ旅立った。

パリでは自作が展示されている万博(1900年)、ルーヴルなどの美術館を見てまわり、
留学中の浅井忠に世話になり、1か月半ほど滞在。ドイツ、スイス、イタリアを歴訪の後、
展覧会開催のため、再びアメリカに戻った。

展覧会でよく売れたのは、日本の風景の水彩画、桜の絵であった。
土手の桜」、これとほぼ同じ絵が、ワシントン水彩画クラブ10周年記念展で最優秀賞に
選ばれ、賞金100ドルを得た。霞がかった夕景の桜は博が得意とするものであった。

土手の桜.jpg

2年の外遊の後、帰国した博は、黒田清輝らが設立した「白馬会」に対抗するため、
「太平洋画会」を立ち上げた。官費でフランスに留学し、美術学校の教授となっていた
黒田清輝と博は仲が悪かったそうだ。

博は、画家である義妹「ふじを」を伴って、再び渡米し、2年半ほど滞在した。
その間に、ふじをとの2人展を各地で開催し、16歳のふじをは、アメリカでの日本人初の女性画家
として脚光を浴びる。「土手の桜」に見られるように、霧、霞、雨上がりといった「もやっ」とした表現の
中に巧みな写実描写が見られる水彩画「霧の農家」
霧の農家.jpg

当時評判だった「ホイッスラー回顧展」を見て、博はホイッスラーに心酔。
油彩へと興味が移っていく。
「チューリンガムの黄昏」は、抑えた色調の黄昏に、灯りがぽつんと、ホイッスラーふう。

チューリンガムの黄昏.jpg


世界各国を旅した博なので、明るい光のフロリダ、ロンドン、パリ、ヴェニス、
エジプトのスフィンクスと外遊時の油絵が観光名画で面白かった。
プラド美術館で、ヴェラスケス、レンブラントの模写をしたものもあった。

漱石の「三四郎」で、「長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画」を三四郎と美禰子が見に行く
下りがあり、「ヴェニスでしょう。、、、兄さんのほうがよほどうまいようですね」と紹介されている。
(この絵は、ふじをの絵と共に「夏目漱石の美術世界展」で展示されていた)

ヴェニスの運河.jpg


第3章 画壇の頂へ 1907-1920

長い海外滞在から帰国してすぐ、博は、ふじをと結婚した。
2人の外国旅行の絵の展覧会は大評判だった。
画壇では、白馬会と太平洋画会の対立が続いていたため、騒動を収めるべく、
日本初の官設公募展「文展」が開催され、その第4回展では博は審査員に選ばれた。
頂点に立ったのである。

しかし、この頃から、博が得意とした水彩画のブームが過ぎ、博の造形は時代遅れと
見なされるようになった。外遊も第一次世界大戦で果たせず、博は国内の山々の絵を
描くようになった。もともと登山が好きで、次男には「穂高」と名付けている。
博はガイドを雇って、良い天気を待ちながら野営し、光や雲の動きを捉えて描いた。
頂上に近い場所で描いているため、他の画家の山岳風景画とは視点が異なり、すばらしい。
「穂高山」

穂高.jpg


博は、槍ヶ岳がよく見える山の中腹の崖に家を建て、4年間暮らした。
博は、中里に家を建てた。崖の上に建ち、庭には見晴台のある広大な
家の応接間に壁画として飾られたのが、「槍ヶ岳と東鎌尾根」の2枚

槍ヶ岳.jpg


同じく自宅の応接間に飾られた壁画。庭の実景であろうか。色鮮やかで美しい。

ばら.jpg


第4章 木版画という新世界 1921-1929

博は大正9年(1920)に新版画の版元、渡辺庄三郎から、明治神宮造営完成記念の
品として大口寄付をした人に配布する賭け軸の下絵を頼まれた。
このことから、「新版画」に対する興味がわいてくる。
新版画は、摺りの回数が多いのが特徴で、作品によっては90回も刷りを重ねる。

「穂高」 渡邊版
穂高水彩.jpg


「帆船 朝日」 渡邊版
瀬戸内海に浮かぶ帆船。朝日を真正面にとらえ、乱反射するさまを表している。
同じ版木で色を変え、「帆船 日中」、「帆船 夕日」も制作した。
大気の変化や光に若い頃から敏感だった博ならでは、であろう。
モネが「ルーアン大聖堂」の連作で時間の推移を描いたのと似ていると思った。
帆船.jpg


1923年、関東大震災がおこり、渡辺の店も全焼。太平洋画会の会員にも罹災者が
多かった。博は罹災者を救うべく作品を持ってアメリカ・ボストンへ旅立つ。
しかし、日本人の絵が珍しかった時代は過ぎ、絵は思うように売れなかった。
そして、いまだに浮世絵に人気があることを知った博は、帰国後、木版画に転じる。
博は彫りや摺りの技術も習得し、職人を厳しく指導して、私家版の制作に乗り出す。
私家版としての作品は、アメリカの西部シリーズで始まった。
「グランドキャニオン」
グランドキャニオン.jpg


ナイヤガラ瀑布」、「モレーン湖」、「ユングフラウ山」、「スフィンクス」など、どれも
すばらしい木版画。
このスフィンクスは、昼だが、夜の一枚との対照が異国情緒に誘われる。

スフィンクス.jpg


博の水の表現は卓越したものがあると思う。
「渓流」、木版でこの表現!
渓流.jpg



第5章 新たな画題を求めて 1930-1937

博は54才で4度目の海外旅行に行く。アメリカは当時大不況下だったで、
ヒマラヤの山々へ憧れもありインドへ19歳の長男と共に出かけた。
インドではイスラム建築に魅了され、絵画に幻想的な雰囲気を取り入れる工夫
をしている。帰国後、「東南アジア、インドシリーズ」の木版画を完成させた。
シンガポール、ラングーン、タージマハール、アジャンタ、ヒマラヤの山など、どれも興味深い絵だった。
印度と東南アジア フワテプールシクリ」
フワテプールシクリはインドのムガール帝国時代の都市。
モスクと思われる建物の中の人物を逆光で浮かび上がらせている。
明るい中庭、床の照り返しなど、光の表現が巧み。

ムガール.jpg

第6章 戦中と戦後 1938-1950

昭和12年、61歳の時、日中戦争が始まり、博は陸軍の従軍画家として中国に赴いた。
自ら志願したとのことである。「急降下爆撃」、「空中戦闘」という戦闘機の絵では、
川端龍子の「香炉峰」と同時代だなぁと思った。
木版画の制作は減り、製鉄所や造船所で働く人々を描き、展覧会に出品した。


戦後、下落合のアトリエが広かったので、進駐軍に接収されそうになったが、画家にとって
アトリエは大切と英語で述べ、接収を免れた。戦前から博の木版画はアメリカで人気が
あったため、吉田邸は進駐軍関係者が集った。博は彼らを迎えてもてなし、木版画の制作工程
を実演してみせ、作品を売った。
体力の衰えもあり、戦後の木版画は1枚だけである。
博の跡を継ぎ、長男、次男共に版画家となり、活躍している。


この展覧会は、前期・後期と分かれ、前期のみ66点、後期のみ66点なので、8月1日からの
後期にも足を運ばないと、と思っている。



 ※ yk2さんが、「吉田博展」の記事を書いてらっしゃるので、おすすめです。
第1回は、アンリ・リヴィエールの紹介
http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2017-08-02

第2回が、吉田博とアンリ・リヴィエールと同時代の日本の版画作家たち
http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2017-08-04

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