マッキアイオーリ展 [展覧会(西洋画)]
庭園美術館に「マッキアイオーリ展」を見に行った。
マッキアイオーリは、人の名前ではなく、イタリア語で「マッキア派の画家たち」。
1850~60年代に、フランスの印象派より早く、「マッキア」(斑点)を使って、
光の描き方の革新をめざし、日常的な風景を描き、従来のアカデミズム的手法
からの脱却をこころみたグループ。
しかし、当時のイタリアは、政治的混乱の時代で、マッキア派は世界的な流れに
なれなかった。
ジョーリ(Gioli)「水運びの娘」1891年
1860年、明治維新より少し前の頃、
イタリアは、南のナポリがブルボン家、北部がオーストリア・ハンガリー帝国、
中央部は教皇にと、地域ごとに分割統治されていた。
シチリア出身のガリバルディ率いる赤シャツ隊は、外国勢力を一掃、圧政下に
あった人々を開放し、イタリアの統一をした。ガリバルディはイタリアの英雄である。
レーガ 「ガリヴァルディの肖像」1861年
この小さい写真の絵では、わからないが、実際に見ると、首に巻いたスカーフの
模様、絹の質感、シャツの赤いステッチ、貝ボタンなどがはっきり見てとれる。
イタリアらしく、革命の闘士の赤シャツもおしゃれ。
赤いシャツが、背景の青い空に明るく映えているが、ガリヴァルディの表情は、
物思いに沈んでいる。
統一イタリアの首都は、当時、フィレンツェであった。
フィレンツェの「カフェ・ミケランジェロ」に、新しい絵画に関心を持った芸術家たちが、
地方都市から集まり、「マッキアイオーリ」と呼ばれる集団となったのである。
中心人物は、①ファットーリ、②シニョリーニ、③レーガの3人だった。
ガリヴァルディの肖像画を描いた③レーガ(Lega)は、叙情的な肖像画の名手で、
「農民の娘」も、顎の下に結んだ赤いスカーフが憂いを含んだ表情を際立たせている。
家庭内の情景を描いた「母親」は、大きな絵で、部屋にはいったとたん、ドレスの
青色に目が行く。母親の子供を見る慈愛のまなざしに幸せな日常が伺える。
飾られた壁面に、ぴったり合っていて印象に残った。
農民の娘
③レーガには、こんな「モネ」の「庭の女たち」+「パラソルをさす女」のような絵も。
レーガ「庭園での散歩」 1860年代後半
マッキアイオーリの画家たちは、フランスのドラクロワやクールベよりも、
牧歌的なバルビゾン派の画家たちの作品を好んだ。
デッサンよりも色彩を重視し、下絵を描かずに、最初の印象を完成品に仕上げた。
①ファットーリ(Fattori)は、青い空、光あふれるトスカーナ地方の風景を描いた。
中心に立つ羊飼いの娘に、聖母マリアのポーズをさせ、威厳を持たせている。
荷車を引く白い牛 1867年頃 「森の中の農民の娘」1861年
②シニョリーニ(Signorini)は、戦場を経験したことから、単純な自然の凝視よりも
社会の現実を率直に表現しようとした。
シニョリーニ「フランスのズアーヴ兵とトスカーナの大砲のルびエラ入城」1870年
シニョリーニ「セッティマーノの菜園」
セッティマーノはフィレンツェ近郊の村。穏やかな田舎での一コマ。
木漏れ日が美しい。
マッキアイオーリの画家たちの作品は、パノラマサイズ、横長のものが多かった。
風景の壮大さを表現しようとしたのだろうか。
①②③の3人の画家たちの作品のほかに、気になったのは、
アーバッティ(Abbati)「地下聖堂の女性」1864年
これは、オペラ「トスカ」の一幕の聖堂場面を思い出す。
アーバッティは、ガリバルディの統一戦線に志願し、戦いで右目を失ったが、光と
透明度を探求しながら絵を描いた。飼い犬に噛まれ狂犬病で亡くなったんだそう
フェローニ(Ferroni)「魚釣り」1882年
日本の浮世絵の影響をうけていると思える構図。
釣りをするのに、白いスーツの正装!と思ったら、モデルは絵の注文者の公爵
(後ろに小さく)と息子。イタリアならではの3色の皮細工の靴を履いている。
庭園美術館を訪れたこの日は小雨。
窓から見える梅の木は、白あり、紅ありで、三分咲きくらいだったでしょうか。
手入れの行き届いた冬のお庭で、凛とした姿でした。
知ってる画家のいない展覧会、イタリアの歴史にも詳しくないので、イタリアに
興味を持っていらっしゃるyk2さんを誘って行きました。じゃ、ごはんはどこで?
もちろんイタリア料理。日本一予約のとれない店「ラ・ベットラーダ・オチアイ」。
何を食べたかは、yk2さんが記事にしてくださっています。