SSブログ

津田青楓展 [展覧会(西洋画)]

練馬区立美術館で開催中の「津田青楓展」に行った。
Tsuda_Entrance.jpg
津田青楓って?と知らない人が多いと思う。
私が津田青楓を知ったのは、2013年、芸大美術館での「夏目漱石の美術世界展」でだった。
青楓は漱石と親交があり、
漱石に絵を教え、本の装丁を頼まれた。
漱石のお嬢さんを描いた絵も展示されていて、活発で愛くるしい姿が印象に残っている。

この展覧会に行こうと思ったきっかけは、2月に行った国立近代美術館での「窓展」で、
見た津田青楓の絵2点「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵)と「犠牲者」が、ちょっとした
衝撃だったからである。漱石展で見たモダンなデザインや明るく笑っているお嬢さんの
肖像画とは、あまりにも懸け離れた絵だった。
絵の横の説明書きに、「青楓は、プロレタリア運動に加わり、小林多喜二の虐殺を描いた
この作品で、特高警察に逮捕、半月間拘留された。」と書いてあった。
何という心境の変化。作風の変化。。津田青楓に俄然、興味を持つようになった。
この絵は、十字架のキリスト像に匹敵する作品にしたいとの意図があったので、
拷問で吊るされている男と左下の鉄格子から見える国会議事堂を対比させている。
Tsuda_絞首刑.jpg



津田青楓は、1880年生まれ、今年が生誕140年になるので、回顧展である。
明治、大正、昭和と3世代にわたって活躍し、画風も変わって行った。


生まれは京都。華道家元の次男。京都市立染色学校に入学。絵を谷口香嶠に
習う。谷口は幸野 楳嶺の弟子で、展示されていた「紫裾濃大鎧図」は気品が
あり美しかった。日清・日露戦争に看護士として従軍。戦地でのスケッチもあった。
染色学校を卒業後、京都高島屋の図案部に勤務しながら、関西美術院の夜間部
で学び浅井忠に師事した。
「うづら衣」という図案集を刊行。

「うづら衣」に掲載した
図案がこれで、ちらしやポスターに使われている。

Tsuda_うづら衣.jpg

これも「うづら衣」図案集より

Tsuda_うづら衣より.jpg
どの図案も、色が明るく綺麗だった。


青楓は、高島屋の推薦で、農商務省の海外実業実習生としてパリに留学。安井曽太郎は
私費で留学、一緒にアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事した。
歴史画家ローランスの大きな絵「ピエトロ」が展示され、圧倒的で目立っていた。
横に安井曽太郎の「グレー風景」1908年も展示されていたが、師とは技量が違う。

パリには3年ほど滞在したが、同時期、パリにいた高村光太郎の話によると、当時
流行のフォーヴィスムには目もくれず、ルーヴル美術館の古代エジプトやギリシア美術に
関心を示していたそうだ。

青楓による漱石の「草合」の装丁だが、松に鶴。鶴がエジプトっぽく見えるのは、
パリ時代の影響だろうか。

Tsuda_草合.jpg


パリ時代の作品展示は一点だけで、「MON BEBE」(My baby).
女子美卒で文部省留学生としてパリに留学経験のある洋画家山脇敏子と結婚していたので、
2人の赤ん坊だろう。


帰国後、漱石との交流が始まった。
漱石は長らく本の装丁を橋口五葉に頼んでいたが、五葉が亡くなったので(注)、「道草」
の装丁を青楓に依頼した。(注)後年の研究から、実際は亡くなっていなかったと判明
漱石との交流は、漱石が亡くなるまで、5年間続いた。
tsuda_道草装丁.jpg


1914年、文展(現・日展)に反発して結成された二科会の創立メンバーとなる。
二科会
は会員数も多く活発で、青楓は画壇の中心人物だった。
この頃の作品「夫人と金糸雀鳥」1920年(国立近代美術館蔵)
モデルは当時の妻、山脇敏子。パリを思わせる背景の壁紙、椅子、服装。
斜めに座る構図で、視線の先に黄色い金糸雀鳥(カナリア)がいる。
安井曽太郎の代表作「金容」1934年も斜めに座る構図で青い服と思い出す

Tsuda_婦人と金⑷.jpg



さらに1926年、京都で津田洋画塾を開き、後進の指導をした。
津田洋画塾主催の「洋画展」には、古賀春江、東郷青児、安井曽太郎らが作品を出した。
洋画塾の
弟子でシュルレアリスム作家の北脇昇、オノサト・トシノブの作品が展示されていた。

京都に活動の場を移した青楓は、マルクス主義者の河上肇と交流を深め、社会主義に傾倒
していく。そして、前述の絵「犠牲者」を描いたことによる逮捕、取り調べの後、
プロレタリア思想からの転向を誓約して、開放された。これ以後、油彩を断念、二科会
から脱退した。かなりのショックだったと伺える。


青楓は、政治性のない日本画の南画を始める。最初の師、谷口香嶠から日本画、掛け軸
などを学んでいるので、難しいことではなかったと思う。さらに、漱石が南画風山水の絵を
描き、書をたしなんでいたことからの影響もある
だろう。


若い頃でも、このような作品を描いていた。
「お茶の水風景」1918年
中央、遠くにニコライ堂のドームが見え、神田川には櫓で舟を漕ぐ人の姿がある。
Tsuda_屏風.jpg


晩年は良寛に傾倒していく。良寛の書に学んだ青楓の書も展示されていた。
私はこの辺りの作品には、あまり興味がなかったので、さくっと見たが、
まさに、明治、大正、昭和、と3世代を画風を変えながら生きた津田青楓であった。


★4月12日まで。他の美術館が軒並み休みの今ですが、土日以外は開館中です。
急に変更の場合もあるので、サイトでご確認ください。https://www.neribun.or.jp/museum_new/detail_m.cgi?id=202003271585300170


nice!(35)  コメント(16)