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ジャコメッティ 最後の肖像 [映画 (美術関連)]

20180112123952.png


細長い人物の彫刻で有名なアルベルト・ジャコメッティは、2017年に回顧展が
国立新美術館で開催され盛況だった。この映画は2017年制作、日本公開は
2018年だった。

アルベルト・ジャコメッティは、父が著名な画家ジョヴァンニ・ジャコメッティ、
弟ディエゴも彫刻家である。小さい時から父に手ほどきを受け、絵も上手い。
特に晩年は、絵を熱心に描いていた。

アメリカ人作家のジェームスは、パリからの帰国直前、かねてからの知り合い巨匠
ジャコメッティに「肖像画のモデルになってほしい」と頼まれ、明後日の飛行機に
間に合うならばと引き受ける。

ジャコメッティのアトリエで、制作が始まったが、終わらないので、ジェームスは
帰国を伸ばす。
大きな彫刻を挟んでモデルと対峙するこの画像がなかなか良かった。
筆をとりながらジャコメッティが訥々と語る。

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アトリエの中ばかりでは、息がつまるからと、散歩に出たり、Caféに行ったり、
いつもの散歩道はモンパルナス墓地。

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時には、妻も一緒にレストランへも。

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休憩よりも、絵を早く完成させてほしいと願うジェームスだが、

6日たち、7日たち、、その間に、愛人、妻、妻の彼、弟と現れ、邪魔がはいるので、
いったいいつ終わるのか、と、もどかしく思いながらも、波乱万丈の生活への参加
も楽しく、去り難い。8日、9日、、、14日。
完成が近づくと、
「やはりダメだ」とグレーの絵の具で、肖像画の顔を塗りつぶしてしまう。
一緒に暮らしている弟ディエゴに相談をすると、「締め切りを決めることだ」
と言われ、2人で協力して、「すばらしい、良い出来だ」と褒め、絵をさっと
画架から外し、完成にさせてしまう。実際、またとない傑作で、
18日間のジャコメッティとの日々は幕を閉じた。
アメリカへの帰国後、ジェームスは、この18日間を「ジャコメッティの肖像」
という本に著した。この本を映画化したのが本作品である。

絵の制作の苦しみと予告で言っていたが、そればかりだったら、観客は退屈するので、

年老いても、なお女好きで、かわいい面があるジャコメッティ像を見せてくれる。
愛人(娼婦)が「車を買って」と登場し、「よしよし」と承諾をした数日後、
愛人が赤いスポーツカーであらわれ、「ドライブに行きましょう」。3人でドライブへ。
この場面も一転して戸外。景色が清々しく、軽快な音楽。気分が変わってよい。
黙認はしているが、不服そうな表情の妻。妻は「矢内原」という日本人ボーイフレンド
と自室のベッドで話し込んでいたりだが、娼婦がしばらく来ないと、ふさぎ込んでいる
ジャコメッティに、急にやさしく寄り添い、
「オペラ座のシャガールの天井画披露
パーティに着ていくドレスを買って」とおねだりだったり、、、飽きさせないように
なっています。


帰宅後、気になったので調べたら、矢内原伊作がパリにいたのは、1956年から61年。
ジェームスが肖像画を頼まれたのは1964年。実際に2人は会ってないので、映画での
脚色。


なるほどーと思ったのは。画商を呼んで、最近の絵を渡し、初期の作品を戻してもらう場面。
今の作品のほうが、一目で「おージャコメッティ!」とわかるので売れるから画商は大金を
置いていく。一方、手離したけれど、初期作品には思い入れがあるから、手許に置きたい
ジャコメッティ。


ジャコメッティをジェフリー・ラッシュ、ジェームスをアーミー・ハマーという
2人の名優が演じ、妻をフランスの名女優、シルヴィー・テステューが演じている。
監督はスタンリー・トゥッチ。


セザンヌ、エゴン・シーレ、ゴーギャンに比べると、気楽に見れて楽しい映画だった。

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映画「セザンヌと過ごした時間」 [映画 (美術関連)]

コロナでのオンライン仕事は終わり、出勤が始まったけれど、時差通勤
なので、ほっとしています。今日から県をまたいでの移動も可とのこと
ですが、復帰は徐々になんでしょうね。
梅雨に向かう季節、マスクは暑くて嫌だけど仕方ないですね。


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「セザンヌと過ごした時間」、原題は「Cezanne et Moi」セザンヌと私。
私=文学者のエミール・ゾラ 。ゾラをギヨーム・カネ、セザンヌを
ギヨーム・ガリエンヌという演技に定評のある2人が演じている。

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「セザンヌとゾラが同級生って知ってた?」ときかれたことがある。
さらにその時、「ゾラの小説、読んだことある?」「昔、読んだわ。居酒屋とか
テレーズ・ラカン」と答えたが、内容を覚えてない。
フランスの19世紀末を代表するような文豪と画家が昔から親友だったとは!

セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンス地方の裕福な銀行家の
息子。一方、ゾラの父はイタリア人のダム技術者だったが、ゾラが7才の時、
亡くなり、母子家庭で貧しく、学校で虐められていたのを1年上のセザンヌが助け、
仲良くなる。水遊びをしたり、ウサギを仕留めたり、自然の中での楽しそうな
少年時代。この辺りの映像が美しい。

18才でパリに出たゾラは、大手出版社(アシェット社)で働きながら、作家を
めざす。セザンヌも画家を目指してパリに出、サロンに挑む。
セザンヌに画家仲間が集まる居酒屋に
連れて来られたゾラは、美しいお針子の
ガブリエルを紹介される。
どぎまぎするゾラをよそ目に、セザンヌは、
「ガブリエル、俺の絵のモデルにならないか」と言う。
父からの仕送りで裕福なセザンヌ対貧しいゾラ。

しかし数年後には、
ゾラ(40才)は作家として成功。ガブリエルと結婚しパリ郊外に立派な家を
構えている。
セザンヌは絵がサロンに入選せず、故郷のエクスで過ごしていたが久しぶりに
ゾラを訪ねてくる。画家をモデルにしたゾラの新刊に対しセザンヌは、
「モデルは俺だろ。
取材費がいらなくて済んだな。あの本で俺を抹殺するつもりか」
と食ってかかる。
売れない画家生活が長く、偏屈になったセザンヌ。
ここで、過去に戻り、2人のそれまでの20年間が年代を追って描かれる。
父から送金をとめられたセザンヌは、故郷エクスで、光あふれる絵の制作に
没頭する日々だった。若いモデルのオルタンスと同棲し、子供もいるが、
厳格な父には内緒。
(オルタンスをモデルに絵を描くセザンヌ)
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ようやくセザンヌの絵は、サロンに入選。
ゾラ夫妻や画家仲間とピクニックへ行ったりと楽しいひととき。
(マネの”草の上の昼食”が思い浮かぶようなシーン)
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ゾラ夫妻(右)とゾラの母、オルタンスと楽しいひととき。
セザンヌと450.jpg


入選はしたものの、セザンヌの絵は売れず、貧乏暮らしは続く。
小説が大ヒットしたゾラは美術評論も多く手掛けていた。世間から非難された印象派の絵や
マネの
「草の上の昼食」を擁護する文章を発表すると、セザンヌは(印象派とみられて
いるのに)「自分は印象派でなく、マネは嫌いだ」と言い放つ。小さい時からの
交流で、セザンヌのひねくれている所がわかっているから、ゾラは怒るよりもあきらめ顔。

2人は、しばしば文学対絵画の議論をする。
「夜中に起き上がって、赤を青に描きかえる苦しみが、きみにわかるか」
「僕も1語に苦しむ。駄文ではないかと悩む。きみは本を読まない。ただ批判する」
「文学と絵は共通点があるけれど、本は安いから売れる、絵は高い」
当時の画家たちが脇役で出てくるのが面白い。ピサロ、マネ、ルノワール、、。
会食の話題にも、バジールが戦争で亡くなったとか、メデュース号の筏とか、
語られる。

ゴッホの絵で有名な「タンギー爺さん」は絵の具を扱う画商で、セザンヌに
絵の具を融通してくれたり、絵を売る試みをしてくれた。
そして終に、画商ヴォラールが、買い手がたくさんいるから個展をしようと
150点の絵を高い値段で引き取ってくれた。セザンヌはヴォラールの肖像画を
描きながら、ゾラへの想いを語る。
「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」1899年

Cezanne_Ambroise_Vollard.jpg

ゾラは、「きみは横柄で喧嘩っぱやい。うんざりだよ。だから成功しない」
と歯に衣着せぬ言葉を投げたこともあったが、大抵は「きみは天才だから」
とセザンヌを励まし続け、資金援助もしていた。
2人は、お互いに家庭状況をわかっているので、家族のことについて語り合う
場面が、何回かあり、それがストーリーを盛り上げていた。

私は、このDVDを4回見た。2回見た後に、ゾラとセザンヌの実際の生涯をWiki
などで読み、そこで知ったことを考えながら見た。見る度にわかることがふえてくるし、
それぞれの人の気持もわかる。そして、ゾラとセザンヌ役の2人の演技がとても上手い
ことに改めて感心した。

<付録>
ゾラは美術評論でマネの絵をほめていた。
マネによる「エミール・ゾラの肖像」1868年

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映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」 [映画 (美術関連)]

コロナでの外出自粛の日々、DVDで美術関連の映画を見ました。

ゴーギャンは、ゴッホの耳切り事件の後、ブルターニュ地方のポンタヴェン
に滞在し、仲間と共に制作をした。その後、タヒチ島へ行き2年間暮らした。
パリに戻り、金銭の用意をして、再びタヒチに行き、死ぬまでそこで暮らした。
この映画は、最初のタヒチ滞在の2年間の記録になっている。

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株式の仲買人として生計をたて、趣味で絵を描いていたゴーギャンだが、
作品がサロンに入選、画家を本業にしようと考えていた。そんな矢先、
株が大暴落、失職。
1891年、パリのCaféで絵の仲間2人と飲んでいる場面。
「お金がない、絵が売れない」「ドガの友人はポリネシアにツテがあるそうだ」
ゴーギャンは「パリは腐ってる、パリには描くべき顔も風景もない」と叫び、
わずかな資金でも暮らせる南の島ポリネシアのタヒチへ単身向かった。
家族をパリに残したまま。(注:ポリネシアはフランスの植民地)


次はタヒチの場面。
村の店へパリの妻からの手紙を受け取りに来たゴーギャンは、「タヒチには
行きません。実家から帰るように言われてるので、離婚します」という文面
にショックを受け、心臓発作で倒れ、フランス人医師のもとに運ばれた。
糖尿病もあるので入院させられたが、勝手に退院し、一人、馬に乗って川沿い
の道をタラバオ海峡めざして歩く。パパイヤを取って食べ、川では魚を捕まえ
ようとするが上手くいかず、飢えと疲れで倒れ、担ぎ込まれた家の娘、テフラ
に一目惚れ。父親に「テフラが気に入ったなら、連れてっていいよ」と言われ、
一緒に馬に乗り、タラバオへ。道中の景色がのどかで美しい。
「タヒチの風景」

Gauguin_-_Tahitian_Landscape.jpg

海で泳いだり、子供たちと遊んだり、テフラをモデルに絵を描く日々。
テフラにフランス語を教え、テフラから土地の神や風習を習いながら、
2人の楽しい生活。
テフラはゴーギャンのことが大好きなので、モデルをしていても、
ちょっかいを出してきたりする。
みずみずしさが溢れていた。


ある日、フランス人医師が、体調はどうかと尋ねて来た。
描いている途中の絵(下の写真)を見て、「タヒチのヴィーナスだ。美しい!」
と絶賛。ゴーギャンは、「ヴィーナスでなく、イブだよ。原始の女性。野蛮で
あどけなく、美しい。彼女と此処に来て生き返った」と目を輝かせて答える。
「イア オラナ マリア」(マリア礼賛)

il orana maria.jpg

フランス人医師は、描きためてあった絵に見入る。
「メランコリー」(赤い服の女性)
Gauguin_Femme a la robe Rouge.jpg

「アレオイの種」

Gauguinアレオイの種.png


どれもテフラがモデルの絵。
「一日中、絵を描き、周りと調和して暮らしている。最高さ。
でも、パリからの仕送りが来ない」と医師に言う。

パリからの仕送りが来ないので、貧しさが募っていく。
絵を描くカンバスを買えないので、木枠にキャンバス地を貼って自分で制作。
日曜日、白い服で教会から帰る人々を見たテフラが、「白い服がほしい」
と言っても買ってあげられない。
お金を得るために、山で木を切って木彫を作り、観光客に売るが、安く
たたかれて、ほとんど収入にならない。

家に戻ってみると、テフラが蝋燭もつけずにベッドの上で泣いている。
悪い霊が来たと怖がっているのだった。
「マナオ・トゥパパウ」(死霊が見ている)
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こういう暗い場面のあとは、ぱっと明るい海。
村人と一緒に夕食用の魚釣りをするゴーギャン。

テフラが熱を出した。医者が来て「流産だ」と告げる。
「家へ帰りたい、お母さんに会いたい、おばあちゃんに会いたい」と
泣きじゃくるテフラ。力になれないゴーギャン。
絵の具を買うお金もなく、絵が描けないゴーギャンは、病弱の体なのに、
日雇いの力仕事に出ている。流産以来、元気がないテフラ。

医師が、フランスからの召喚状を持って来た。本国に戻らなければならない。
ゴーギャンの健康を案じての措置だった。

「帰国することになった」と告げると、「知ってたわ」とテフラは、
引き出しから絵筆を出し、ゴーギャンに渡し、モデルの椅子に座る。
最後の絵を描く。「テフラの祖先」

G-_Tahamaha_hat_viele_Vorfahren_-_1893.jpg

泣きそうになるのをこらえるテフラ。愛おしいという表情で見つめながら、
絵筆をすすめるゴーギャン。

帰国の港に、テフラは送りに来なかった。じっと港を、今にテフラが来るの
では、と姿を探すゴーギャン。~幕~。

字幕が出る。
パリに持ち帰った41点のタヒチの絵の評価はわかれた。その後、ゴーギャン
はタヒチに戻ったが、テフラには2度と会わなかった。


出演:ヴァンサン・カッセル(ゴーギャン) ツィーイ・アダムス(テフラ)
2017年制作 102分 フランス映画 原題:Gauguin_Voyage de Tahiti


パリで見た「ゴーギャン展」の記事です。回顧展なので、展示作品が多く、
とてもいい展覧会でした。


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映画「死と乙女」エゴン・シーレ [映画 (美術関連)]

2017年公開のオーストリア映画、DVDで見ました。

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「死と乙女」は、エゴン・シーレの半生を描いた伝記ドラマ。
なんとタイムリーな! シーレは28才で、流行のスペイン風邪で亡くなったのだ。
1918年、第一次世界大戦の末期のウィーン。暗い緊張感に覆われた時代。
スペイン風邪で重篤のエゴン夫妻を妹が訪ねる場面から始まる。
介護をする人はマスク必携。マスクは紐を耳にかけるのでなく、覆面のように
後ろできゅっと縛る。窓をさっと開けたりはコロナ対策と同じ。

エゴンはハンサムで、もて男という評判の通り、細面で目が魅力的。
ストーリーは1910年にさかのぼる。
20才のエゴンは16才の妹をモデルに裸体画を描き、絵には顧客がいる。
妹は兄を敬愛し仲が良い。
エゴンはアラブ系のダンサーに惚れ、画家仲間との
田舎への絵描き旅に
連れて行く。妹も同行し画家仲間のひとりと恋に。
モルダウ川での遊びや
サイクリングの場面が実に楽しそうだった。

ある日、エゴンは師と仰ぐクリムトに絵を見てもらいに行く。絵を気に入った
クリムトは買うと言ったのだが、シーレが断ると「僕の絵と交換しよう。
好きなのを1枚選べ」と言い、その場にいたモデルのヴァリを紹介し、
「ヴァリを描いてみたいか」と言う。
数日後、ヴァリが、モデル代はクリムト持ちで、とやって来る。
意気投合する2人。森を散歩する場面や雪の夜の場面など抒情的な映像。
2人は一緒に住み始めた。
 
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1914年、ヴァリはエゴンとの結婚を考えているが、アトリエの向かいに
住む姉妹と親しくなったエゴンは、姉妹の家に招かれ、中産階級の安定した
生活に魅力を感じる。第一次世界大戦が始まり、召集命令が来たエゴンは、
妹のほうにプロポーズをする。ヴァリは?
ヴァリには、「結婚できないけど、僕の絵にはきみが必要。愛してる。
結婚しても毎年、夏の休暇を一緒に過ごそう」、、、何たるエゴイスト。。
怒ったヴァリは、従軍看護婦に志願して戦場へ。

1915年、エゴンの個展会場、初日。妹がエゴンがいる会場の事務室に
「おめでとう」と言いに来る。
エゴンは無言で、ヴァリが戦地で亡くなったという知らせを妹に呈示し、
個展の作品リストの「男と乙女」Mann und Mädchen の「男」Mannの字を消し、
「死」Todとした。
その絵は、ヴァリとの最後の日、2人の姿を描いた思い出が詰まった絵だった。

以上が、省略部分も多いがあらすじ。

片時も絵の制作を忘れることがない、2人でベッドにいても、絵のための
ポーズを追求する強烈な画家魂が伝わってきた。

「死と乙女」の絵には、いろいろな解釈があるけれど、「男と乙女=
エゴンとヴァリ」なのだと、わかった。
ヴァリ役はが魅力的な女優なので、同情心が募る。
第一次世界大戦という時代を表すのに、音楽が効果的に使われていた。

死と乙女300.jpg

コロナ休暇中に見るのにぴったりだった。映画では触れてないけど、クリムトも
スペイン風邪で亡くなったそう。クリムトは出番が多くないけど、以前見た「クリムト」
の映画でと同じスモッグを着ていた。
昨年ウィーン・モダン(クリムト、シーレ世紀末への道」展を見て、クリムトや
シーレに親しみを感じているので、興味深く見ることができた。


この映画をご覧になったmozさんの解説と感想がわかりやすいので、おすすめです。

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映画「アイリーン・グレイ 孤高のデザイナー」 [映画 (美術関連)]

コロナでの外出自粛の日々、DVDで見た美術関連の映画を記録しておきます。

アイリーン・グレイの名前を私が知ったのは、2017年秋に
ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」という映画を見たからである。
タイトルから、コルビュジエと共同設計者アイリーンがヴィラ(別荘)を建てる話
だと推測して、3週間後にパリでコルビュジエの「ラ・ロッシュ邸」を見る予定が
あったので、丁度良いと出かけた。
映画のことは、ラ・ロッシュ邸の記事で紹介してあるので、興味のあるかたはどうぞ。


この映画は、アイリーンの生涯の物語を俳優が演じるのではなく、作品の研究者や
関係者たちが、順番に登場して、アイリーンについて生涯を追いながら語る構成に
なっている。

生い立ち:アイリーンはパリで活躍したが、アイルランド生まれのアイルランド人。
アイルランド国立博物館のグレイ研究者ジェニファー・ゴフが、写真を交えて語る。
1878年に貴族出身の母と中流階級出身の画家の父との間に生まれ、5人兄弟の末っ子。
小さい頃住んでいた家が写真で紹介されたが、郊外のお城だった。
画家の父から自由奔放な生き方を、財産家の母から経済的自由を得たのだった。

アートの世界へ:
1900年に母とパリ万博を見物し、アートに目覚める。ロンドンのスレード美術学校で
学んだ後、パリのアカデミー・ジュリアンに通い、ロンドンの店で見た漆工芸(lacquer)
作品に惹かれ、パリに住んでいた日本人の漆職人、菅原精造に師事した。
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漆:アイリーンは、漆という伝統的な素材を使って、モダンデザインのものを制作した。
椅子やテーブルの足部分に漆を使ったり、スクリーン(間仕切り)の模様に使ったりし、
それらを展示・販売の店「JEAN DESERT」を1920年パリの一等地サントノーレに構え、
菅原を雇った。ノアイユ侯爵夫人、ジャック・ドゥセ(ファッションデザイナー)、
歌手ダミアなど当時の有名人が顧客として名を連ねる人気の店だった。
写真:漆塗りに銀箔が施された長椅子「カヌー」。
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「アール・ヌーヴォーの美術」東京美術 P109より


アイリーンは、漆でスクリーン(間仕切り)も制作した。(V&Aのサイトで見れます)
映画の中で紹介されたMilkyWayという青い漆の上に真珠母貝が光るスクリーンは
美しかった。漆で青を出す方法は秘密だそう。

ジャック・ドゥセの紹介で、家のインテリアも頼まれ、家具をデザインするようになる。


スティール(金属):
家具にスティールを初めて使ったのは、マルセル・ブロイヤーと言われているが、アイリーンは
それより前1919年に、サテライト・ランプで使っていた。
スティールパイプを使ってデザインした軽くて動かしやすい椅子は、今では当たり前だが、
機能に注目したデザインの椅子はアイリーンが初めてである。デザイン性の高いモダンな
家具であっても使い心地を大切にする、それが現代でも支持される理由だろう。
スチールとガラスのサイドテーブル「E-1027」はニューヨーク近代美術館の永久コレクション
に収められている。


e-1027Chase.jpg

恋人、建築:

ルーマニア人の建築家で評論も手掛けていたジャン・バドヴィッチが恋人となる。
ドヴィッチは、アイリーンの店「JEAN DESERT」の外装を手掛け、評論家としての
幅広い交友関係からル・コルビュジエを始め、当時活躍のアーティストたちを
アイリーンに紹介した。さらに、建築やデザインの出版物をたくさん読み、時流を
知るようにすすめた。アイリーンは、バドヴィッチを通して、どんどん建築にはまって
行ったのである。

設計した家:
アイリーンは、ドイツのバウハウス、オランダのデ・スティル、時流のアールデコ
などのグループのどれにも属さなかったが、たくさんの出版物を読むことにより、
時代の先端の感覚が培われていた。そのため、さまざまなスタイルの作品を残している。
映画「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」で、取り上げられた家は、
アイリーンの設計で、バドヴィッチが客をもてなすための海辺の別荘だった。
コルビュジエは、嫉妬するほどアイリーンの才能を認め、デザイン出身のアイリーンが
製図を上手く描けるように、上達を願って仕事を与えた。


アイリーンは78才の時にペルーにある古い農場の小屋の改築を地元の建築技師と
組んで手掛けた。その家は太陽光が入り、風が吹き抜けることを趣旨とした自然と
調和できる家だった。現代の私たちのライフスタイルを100年も前に作りだして
いたのである。


最後に:ポンピドゥ・センターのキューレーターのクレオが、「コルビュジエが
近代建築の父なら、アイリーン・グレイは近代建築の母だった」と締めた。


バドヴィッチが亡くなった後、アイリーンは、デザインの表舞台から消えていった。
コルビュジエは別荘「E-1027」を自分の発案と言い、アイリーンの名を伏せた。
しかし、2009年に行われたサンローランの遺品オークションで、
アイリーンがデザインした「ドラゴン・チェアー」が1950万ユーロ(日本円28億円)
という史上最高値で落札されたことから、再び脚光を浴び、映画が2本制作された。


原題:Gray Matters (グレイに関すること)
2015年、アイルランド制作


追記:yk2さんが、コメントで、アイリーンが漆を習った菅原精造について詳しく
書いている研究論文を紹介してくださいました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/63/6/63_6_57/_pdf
ここにアイリーンの作品の写真が掲載されています。

これを読むと、菅原精造は東京芸大で漆工を専攻したが、当時のカリキュラムは、
漆が仏像制作にも使われることから彫刻も学ぶようになっていた。彫刻の師は、
高村光雲で、実際に指導を受けている写真があった。菅原精造の墓には彫刻家、
漆芸家と刻まれている。
アイリーンは菅原精造と共に仕事をし、「カヌー」のような
長椅子を作る技術、家具制作を学んだと思われる。このことが後の建築への興味
につながっていった。




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カズオ・イシグロ ノーベル文学賞受賞 [映画 (美術関連)]

さきほど聞いたニュース「今年のノーベル文学賞は、カズオ・イシグロに決定!」


ここ数年、村上春樹がノーベル文学賞を受賞するかどうかで話題がもちきりだった。
でも、今年はそれほど騒がれず、熱も冷めたかと思っていたら、カズオ・イシグロが受賞。
カズオ・イシグロは日本人だが、5歳の時父親の転勤で、英国に渡り、英国で教育を受け、
今は英国国籍である。


私が、カズオ・イシグロを知ったのは、
yk2さんの記事 「NEVER LET ME GO ~ わたしを離さないで」 だった。


この記事を読んで、「面白そう!」と買い、ぐいぐい惹きつけられ、一気に読んだ。
そして、著者イシグロカズオに興味を持ち、「日の名残り」を文庫本で読んだ。
英国の老執事の物語で、第一次世界大戦後という時代を思い出しながら一人称で語られる。
言葉づかいも、執事を体現する丁寧な言葉。文章から英国の広大な屋敷が眼に浮かぶ。
屋敷の主ダーリントン卿は、平和を願い、世界戦争にならないようにと、英・仏・独の大使らを
招いての談義。同年輩の女中頭への想いも綴られる。

「日の名残り」は、映画化されていることを知り、DVDで見た。
アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンという演技に定評ある2人の主演で、原作より短く
なっているが、英国の風景が美しく、とても良かった。
Remains_of_the_day.jpg



「私を離さないで」も、本の発刊から数年後に映画化された。
期待して出かけたが、本のほうが良かった。
本は、かなり、自由にイメージを膨らませることが出来るので、私なりにイメージした世界や
景色があったのだが、それとは違っていた。



never let me go.jpg



カズオ・イシグロの文章は軽快でリズムがある。
彼は、本だけでなく、女性歌手ステーシー・ケントのために作詞もしている。
作詞では、おしゃれな架空の世界を作り上げている。たとえば、The Ice Hotelの歌詞は、
二人でアイスホテルへ出かけましょう。
カリブ海はもう予約でいっぱいだけど、それでもいいわ。

前はバルバドスやアンティグアのほうがずっと好みだったけれど、
今だったら北極でも二人に相応しいと思う。
二人ででかけましょう、アイスホテルへ。


きれいな澄んだ氷で築かれているの。ソファー、ロビー。
シャンデリアまで氷よ。
設定された気温は常にマイナス5度。
私たちのニーズにこれほど応えてくれる場所は他にないわ
二人で出かけましょう。アイスホテルへ。

(英語ではもっときれいです。日本語にすると、あまりよくないけど。。。)


ステーシー・ケントは、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞にお祝いのメッセージを
送っている。→ 


カズオ・イシグロは、多作ではない。最新刊は、「忘れられた巨人」
アーサー王の時代の架空の世界。過去の物語というより読み終わると、普遍的な何かを、
未来に向かって何かを問うている気がした。
ステーシー・ケントのCDと並べて写真に撮ってみた。


K_Ishiguro.jpg


英国にいながら日本人の家庭で育ったことは、自分の物語作りに欠かせない要素だと、
カズオ・イシグロは言っている。そのおかげで、周りのイギリス人とは違った視点で、
世界を見ることができるようになったと。
「表面は穏やか、表面は抑制されているという、日本の芸術の長い伝統。表面の下に
抑え込んだ感情の方が、より激しいという感覚がある」とも語っている。

英国籍ではあるが、川端康成、大江健三郎に続く、日本の心を持った受賞者といえるだろう。


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